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徳島大空襲:宮本 登美子

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市北常三島町 宮本 登美子

 私は藍場町三丁目(今のあわぎんホール・郷土文化会館)生まれの女学生でした。その時代の町内会長さんは、Aさんです。新町橋のたもとには、しだれ柳のあった榎本兵の料理屋、市川精養軒(肉屋)、出雲神社、古川病院、寺澤病院、森六の醤油屋、金陵西野、徳島倉庫群が川面に写っていました。
 七月三日の夜はB29爆撃機が多く飛来し、Bさんの大邸宅の方から火が迫って参りました。父は井戸につるした衣料の袋のひもを切って、最後に出たらしいです。私と弟(小四くらい)妹は、母に背負われて家を出ました。寺町方面に向かいましたが、眉山の方は焼夷弾が落ちてるようだったので、眉山のふもとの道を二軒屋方面へ、三角巾を防火用水でぬらしながら進みました。煙が立ちこめて息苦しかったです。頭には薄い夏布団をかぶり、そっとのぞくと、米兵の姿がはっきり見えました。二軒屋近くまで行ったとき、町内会の方から大邸宅の池のそばに案内され、火が来たらここの人達と一緒に大きな池に入るようにと言われました。明け方、二軒屋の金比羅神社の絵馬堂がよく燃えておりました。今でもそこの町内会の方には、命を助けて下さったことを感謝いたしております。七月四日明けの太陽は真っ赤で怖かったです。その後、知り合いの農家で少しの間お世話になりました。
 父と出会ったのは、眉山のふもとの天神さんで、おにぎりを二個ずつ下さると言うので四人で頂きに行ったときに再会し、抱き合って喜びました。春日神社の池でも直撃で何人か亡くなられたらしいです。我が家の焼跡は四日目か五日目くらいでないと、熱くて見に行くことができませんでした。そこには風呂釜が残っているくらいで、しばらくの間、涙が止まりませんでした。
 そして、八月十五日が終戦日となりました。今までは、夜が来ると電灯の灯が外に漏れないように、大きな風呂敷等でカバーをしていました。それが今夜から明るくして過ごせると思って、大変嬉しかったです。戦争は二度としてはいけません。風呂釜はしばらく近所の方のお役に立ったようです。

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