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徳島大空襲:西 美代

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市助任本町 西 美代

 昭和二十年四月に、爆弾が助任小学校の校庭に落ち、一つは富田小学校近辺の私の家から三十メートルくらいの民家の玄関に落ち、隣の家の方とも七名が亡くなった。道をはさみ二軒目が私の家です。通りに面した側は割れたガラス戸が家の中に散乱し、壁土と一緒に爆弾の破片が落ちていました。父と私は勤めに出て家にいませんでした。よかったです。
 七月三日は私の十八歳の誕生日でした。四日未明に空襲警報で私は目が覚め、外へ出ると市内一面火の海で、逃げて来る人に熱風がうずを巻き、草木がゆれ動いていた様は、地獄画でした。私は両側の家が燃える中を走り抜け、富田小学校の前の方の田んぼの中にいました。落ちてくる焼夷弾に当たらぬようにと上を見ていました。
 焼け残っている家で水をもらい、放心し、休んでいました。十一時過ぎ、父親が姉の家から帰り、私を捜しているのに会い、嬉しかったです。おにぎりをお腹いっぱい食べさせてくれました。
 私は姉の家へ歩いて行くことに決めました。富田駅から線路を歩いて県庁の横を通り、徳島駅を出て出来島ではまだ火を吹いて燃えている製氷会社がありました。佐古駅を過ぎ蔵本駅手前で川の方へ進み、渡し船に乗りました。次に吉野川を船に乗り藍住へと歩きました。民家の人がワラ草履をくれたり水を飲ませてくれたりしました。一路、土成の御所まで休みながら歩きました。以前に三回ほど自転車で買い出しに行ったときに、要所要所をしっかり確認していたのがよかったです。半鐘のある広永という所から山へ向かうのです。一丁ほど両側にくぬぎ林がある所が怖いので、一心不乱に最後の力を出して走りました。姉の家の明かりが見えてきたときは、ほっとしました。夜の八時ごろでした。やっと着きました。姉が「よう生きとったな。」と涙して喜んでくれました。十八歳になった翌日でした。
 姉の家を半月くらいで出て、羽ノ浦の父の妹の嫁ぎ先、中ノ庄という所へ疎開しました。家の裏側に二階建ての寝床という倉庫のような建物があり、焼け出された三世帯の家族が住んでいました。四世帯二十名で毎日ワイワイ言って暮らしていました。空襲警報が鳴り、外を見ると、和田島の飛行場で艦載機の空中戦です。三町村(宮倉、坂野、和田島)離れていて遠いのですが、田ばかりで、家の食堂の広いガラス窓ごしによく見えます。飛行機が燃えて落ちています。遠いため高さがありませんので映画を見ているようです。今も目の奥に焼きついています。
 家も焼け、会社もなくなり、先輩が祖谷の親戚に行こうと三日間泊まりました。B29が飛ぶと谷間は轟音が鳴り響き、仰天しました。山を下り、祖谷の駅で汽車を待っているときに、駅で天皇陛下の玉音を聞き、戦争の終わりを知りました。

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