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徳島空襲の恐怖の思い出:高木 喜代子

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市南二軒屋町 高木 喜代子

 昭和二十年に入り、大東亜戦争も、玉砕玉砕という言葉が使われるようになり、日本に対する空襲は日々に激しくなってきた。六月過ぎから毎夜、空襲警報のサイレンは鳴り、着替えもできず横になる日が毎晩のように続いた。そして、七月三日の夜半から四日の早朝までの米軍による空襲で、徳島市内はほとんどが焼け野原となってしまった。
 私の父は「こんな四国の田舎まで問題にせんだろう。」と落ち着き払い、疎開もしていなかった。父の実家の叔父がリアカーを引いて来て、少しは荷物を減らしておくようにと、あまり着ることもない私達子供の晴着や、祖父や父のモーニング等持ち帰ってくれた。
 六月に秋田町に爆弾が落ちたこともあり、徳島は太平洋に面しているので危ないかも知れないと思っていたが、遂に現実となったあの夜、サイレンの音と、しばらくして、ズドーンという不気味な音は今も忘れることができない。庭に掘った防空壕から出て見ると、徳島駅の方が夜空を赤く染めている。近所の人達が、近くの金比羅様の山の方に逃げようと小走りに続いて行く。私の家は、道路より少し奥に入った一軒建の家だったので、あわてて逃げなくてもと思っていたが、近くの人が、「早う逃げんと煙に巻かれるでよ。」と言ってくれ、私は万一のときにとリュックサックの中に、当座の着替を入れていたが、街の中心より少し離れていた鷹匠町も段々危険が迫ってきたので、祖父は家族に「もしはぐれたら、明神様に行くように。家の氏神様に行け!」と命令をして、家族そろって家を出た。今の徳島と違い、当時は木造の家ばかり。ザーザーと音がして夜空は真っ赤に染まって行く。死ぬかもしれないと思い逃げる中、家族にはぐれた私は、一人明神町の土手の所に座り、小川に足を入れて、低空で一機敵機の赤く照らされている機体を眺めていた。
 明け方、明神様に行くと、家族全員ケガも無く無事で、ホッとし、米機も去り、我が家に帰って見ると、辺りはすべて焼け焦げ、家の跡から徳島駅の方まで見通しのきく無残な焼土と化していた。唯々呆然として立ちつくし、涙も出なかった。
 着のみ着のまま、父の実家のある、当時は名東郡南井上村といっていた所まで黙々と歩いた。焼け跡の臭いのする街に電柱がぶすぶすと燃えていた。丸新の外壁の建物がポツンと一つ残っていた。
 家族全員無事だったことだけでも有難いと思わねばと、赤い鼻緒の下駄ばきの足を見ながら歩いた十九才の夏の朝は、今でも思い出すと胸痛む思いがする。
 遠い遠い昔の戦の無残さ。これは経験した人でないとわからないことだと思う。今の平和な世の中、食べる物は何でもありぜいたくな現在、私はこのことを子や孫に話して聞かす必要があると常々思っている。十分理解できなくても、そういう時代があったのだということを話しておくのが、そのとき生きた私達の責任だと思っている。戦は絶対に避けなければと、八十過ぎても強く強く思うこのごろなのです。

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