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徳島大空襲にまつわる体験談:河野 勇

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市出来島本町 河野 勇

 昭和二十年七月四日未明の徳島空襲のときは、松茂の徳島海軍航空隊に特攻隊員として配属されていた。七月四日未明、空襲警報で起き、飛行場で一段と小高い機銃陣地に向かった。肉眼と望遠鏡で徳島市上空のB29の焼夷弾攻撃を見た。(海軍対空用望遠鏡なのですごく拡大できる。実によく見えた。)
 B29から投下された焼夷弾で徳島市上空には白煙がぐんぐん上昇して、かなりの高さと広さであった。空は真昼のごとく、下に行くほどピンク色に変わり、だいだい色から真っ赤に近い火炎の中に、城山だけが真っ黒くハッキリ見えた。徳島市の上空が大きな白煙で覆われている中を焼夷弾がスーと落ち、パッと水平に広がり、金、銀、赤、ピンク、白色と交互に光り輝き、キラキラ、またキラキラしながら、数条の糸のごとく落ちていく。それが幾重にも重なり、また次から次へと焼夷弾は投下され落ちていく。言葉で言い表せない光景であった。
 空襲は終わり夜が明けた。私もすぐ航空隊を飛び出した。私の家族六名は鷹匠町三丁目に住んでいた。
 どこをどう通ったか記憶にないが、なんとか新町小学校付近まできた。
 なんといっても火炎の中はものすごい熱さと、台風なみのものすごい熱風が渦巻いている。新町小学校の校門の前で、やや大きいコンクリート製の防火水槽に国民服の男が寄りかかり、うつむいたままで「水をくれ、水をくれ。」と言っている。水は見当たらない。人間は誰もいない。どうすることもできない。少し歩くと、男女の区別さえわからない、駆け足のスタイルで右側を上にして、真っ黒の死体が道路に転がっている。さらに進んで、山裾の伊賀町あたりを通って鷹匠町に向かったが、大道あたりは煙と火炎と熱風でほとんど先は見えないし進めない。家族のことはあきらめて、兄のいる出来島へ行く途中で、場所はぜんぜん覚えてないが、死体が転がっているという感じの場面に何回も出遭ったが、見過ごすしかなかった。
 出来島の踏切に来たが、誰一人見当たらない。ここも台風のような熱風と酷熱の熱さ。電線が垂れ下がり、そして歩道に広がり、足の踏み場がない。刑務所のレンガの塀が前川橋の方向にのびている。塀の溝に自転車が何台も続いて置いてあった。兄の家も煙で見えずあきらめた。これが空襲直後の場景でした。
 後日、母からきいた話では、祖母(八十歳)は行方不明、母、姉、弟の三人は秋田町三丁目と四丁目のやや大きなどぶ溝に架かる小さい渡り道(橋)の下に避難し、どぶ水を飲み、どぶ水で顔や体を冷やして熱さに耐えたと聞いた。妹(小学生)は一人で東富田の神社に避難していたとの話であった。

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