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戦災の跡:藤井 孝也

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市通町 藤井 孝也

 昭和二十年七月三日、日暮れまで、元町東側を強制疎開した跡に、町内の防空壕をつくる作業をしていた父が帰宅してきた。Aさんが父に、今晩B29が徳島へ来襲すると言う。彼は、同じ町内で自転車店を営業していたが、当時は、戦時体制による徴用で松茂の航空隊へ動員されており、その情報は信頼するにたる。
 急いで夕食をすませ、足手まといになる妹や姪を母と姉が、北島町の親戚へと連れていく。また、近所の高知から赴任のBさんに事情を話し、奥様と幼児二名も誘う。
 一方、家に残った四人は、土蔵の換気口を練った赤土で塞ぎ、入口の観音開きを閉じる。まだ納骨の済んでない戦死した兄の遺骨をかめに入れて庭に埋める。鍋や釜も池の中へ入れるなど慌ただしい。ラジオを聞きながら敵機の来襲状況を判断していた。北の空の一部が焼夷弾攻撃により赤くなっており、姫路方面だろうかと思われた。「今日は、これで徳島は、大丈夫かなぁ。」と思って万が一に備え、ゲートルを巻いたまま、四月に入学した広島高等師範学校への登校日のことも気になり、横になっていた。
 ラジオでB29が室戸岬を北進中とのことを聞くや否や、その爆音を頭上に聞く。「サァ大変だ。」と急いで家を飛びだすと、照明弾が投下され人影が鮮明で、避難のため慌ただしい異様な雰囲気だ。声をかけ、互いに励ましながら、父、義兄、妹と共に、新町橋のほとりに避難する。近所のT氏が、六月二十九日の岡山空襲経験を父に話し、川へ逃げるのが最も良いとの助言を受けていたからだ。人影の流れは、橋を渡って新町の方へ移動している。避難して三十分ぐらいして、暗闇であった新町方面は、焼夷弾投下により一瞬に紅蓮の炎に包まれる。対岸の熱気のために、私たちは川の中に。頭には座蒲団を乗せ、互いに水を掛けつつ、焼夷弾が直撃しないように、戦死した兄に「守ってくれー。」とお祈りをすること切なり。
 米軍の「作戦任務報告書」によると爆撃の時間は、一九四五年七月四日午前一時二十四分から同三時十九分までの一時間五十五分となっている。
 空襲も止み、空が明けてくる頃、川から出る。体が冷えこみ、焼け跡で暖をとる。太陽が昇ると共に明るさを増すが、煙で視界が遮られている。徳島駅方面を見ると、土蔵がいくつか残っている。幸いにも見かけた土蔵がある。近づくと、屋根より煙が出ていたが、池の水で消火する。一階にあったビルマ(現ミャンマー)から遺品として送付された「将校行李」は、焼失したが、幸いにも荷札は残っており、今も兄をしのび仏壇に保存している。
 汽車が佐古駅から徳島駅を通過して、二軒屋駅へと到着する流れが、私の住んでいる通町から一望できること。これが戦災の跡です。

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