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徳島大空襲を体験して:田中 政代

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市新浜本町 田中 政代

 昭和二十年当時、国民学校六年生だった私は、警戒警報が出ると学校から帰宅させられました。内町から紙屋町を通り剣先橋へ、徳島公園に展示してある大砲のそばを通り鷲ノ門、徳島本町三丁目までは子供の足で二十分はかかったと思います。服装は、白いブラウスをカーキ色に染め、下は母の手縫いのモンペでした。帯地の学習カバンと防空頭巾をたすきにかけ、名札には住所・氏名の他に必ず血液型が記入されていました。
 徳島市内には秋田町と住吉に、昼間、爆弾が落とされて、わざわざ見物に行ったりしたものです。七月一日、二日と夜になると空襲警報が発令されたものの、何事も無く過ぎた翌三日の夜から四日朝の徳島大空襲から六十五年近くになりました。
 当時、父は内町警防団の一員として学校に詰めており、母と私達姉弟四人が体験した恐怖の数時間も、長い年月の間にだんだんと記憶が薄れてきました。
 空襲警報が出ると、家の裏の空地に父が掘って作った防空壕に家族が入り、解除されるのを待っていました。三日も続いて空襲警報が出て、今夜も前日と同じと思っていたものです。何時かは覚えていませんが、突然バリバリと大きな音がしたので外を見ると、焼夷弾が二階の屋根に落ち、燃えだしています。私が二才の弟を背負い、母が四才の妹を背負って上の妹の手を引き避難することにしました。すぐ近くの乳母車の荷物を持ち出す間もなく福島橋方面へ逃げました。藩政の松並木の堤防の外側の福島川には板を積んだ木造船が停泊していました。すぐに船底に身を隠し、早く空襲が終わるのを待つばかりでした。どのくらい時間がたったか分かりませんが、その間にも夜が明け、大量の煙でぼんやりかすんだような太陽と、少し風が吹いていたことを覚えています。
 近所の人達も広場に集まり、お互いの無事を喜び合いました。友人のお母さんが、一人娘さんが居ないと半狂乱になっていましたが、その後、無事に見つかりました。町内では二人の方が亡くなりましたが、大ケガの人や、直撃を受け亡くなった人を全然見かけなかったのは、私の記憶の中で少しは救いです。
 父も朝には帰り、家族が無事でほっとしました。近所でも旧蜂須賀藩家老の屋敷が焼けずに、井戸を使わせてもらったり、中洲の製氷会社が焼け、勤めていた近所の人が持ち帰ったヨコの刺身と炊き出しの「おにぎり」が美味しかったりしたことは忘れません。
 自分の家は跡形も無く焼け、防空壕に残していたカバンも半焼けでしたが、通信簿が出てきたので今でも持っています。二日間は別の防空壕で過ごし、六日には佐古駅から汽車で鴨島の伯母の家へ疎開しました。
 当時のことを覚えてる人達も年と共に減り、私も今ならまだ少しは正確に覚えているうちにと、今回、応募させて頂きました。

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