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忘れない二十才の七月四日:出口 久子

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市中吉野町 出口 久子

 一九四五年七月三日、私は挺身隊の一員として、某銀行に勤務していました。
 当日、勤務を終え、退社するときでした。上司が「今夜ぐらい徳島がやられるかもわからん。そのときは、一番高い、好みの服を着て、荷物は少なくして、逃げなよ。明日も会えることを祈っとるけんな。」と、帰途についた私たちを裏口まで見送ってくれました。
 帰る途中、同僚と「昨夜、高松が焼かれたから、気をつけような。」と言って家路につきました。
 帰宅後は、夜の仕事として、電灯に黒いカバーをして、光が外に漏れないように工夫し、当時出征していた兄二人と婦人会からの依頼の慰問袋を作っていたときでした。
 警戒警報のサイレンが鳴り、ああ今夜もかと灯をすべて消し、身支度をして、家の前庭に出ました。前庭には、松など植木が多数植えてあり、その樹木の間に隠すように二坪ほどの防空壕を造り、簡単な生活必需品を形式的に入れ、「実際に使うことはない。万一、使うようになれば、日本の国も終わり。」と思ったりしていました。
 母と二人、壕の前で、バケツの水を確認し、すぐそばには井戸もあり、木々に囲まれた一軒屋であったので、類焼の心配もなく、少しの火ぐらいは消せると思っていました。
 夜も更け、空襲警報が鳴り、高松方面からB29の爆撃機の最初の編隊飛行、十機余りが飛来しました。
 今の佐古一番町から蔵本方面に通っていた三本の道路に、まるで運動場に白線を描くように、まず、照明弾がまかれました。
 この照明弾で焼け出した家もあり、我が家の庭木はパチパチと音を立て、まるで現代の電飾のようになり、茫然と立っていました。しばらくすると、道路が人々で騒然となり、危険を感じました。当時、預かっていた四才の姪を背負い、貴重品だけ持って、避難する人の流れに沿って、矢三口から佐矢橋を渡り、暗闇の方、吉野川堤防に向かって歩きました。その道端には、早くも、頭から血を出したまま座り込んだ人々、大声で泣きながら、名前を呼び走る人々、まるで地獄絵図そのものでした。
 堤防に着き、佐古方面に目をやると、現在の一番町から五番町まで、各所に、炎が上がり空も赤くなって見えました。それまでもB29爆撃機は、繰り返し飛来し、炎を上げて燃える明かりを利用し、焼け残っている民家に焼夷弾をまき散らしました。この間、日本軍の防戦は、空からも陸からも何もありませんでした。
 夜も明け、警報が解除になり、高台から我が家の方を見渡すと、現在の一番町から五番町まで、すべての通りが見ることができました。残っていたのは、一つの土蔵と味噌屋の煙突が一本でした。
 それから、家のない不便な苦しい生活の始まりでした。
 戦災後は、隣組の人ともバラバラになり、情報もないまま月日が過ぎました。
 銀杏の大木に登り見張っていた隣人は直撃弾で即死、防空壕の中で残っていた親子四人も焼死、隣人の三人は逃げ遅れて焼死と、隣組だけでも八人の死者が出たことを後日知りました。
 語られない戦争の悲劇はたくさんあります。戦争という言葉が全世界から消える日を祈りつつ。

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