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徳島大空襲を体験して:繁崎 行雄

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市明神町 繁崎 行雄

 昭和二十年七月三日から四日未明にかけて徳島大空襲を受け、徳島市の大半が一夜にして焼土と化しました。
 私は、中佐古九丁目十三番地(現在の佐古五番町一〇 付近)で被災した当時(十四歳)の様子を記してみました。
 七月三日夜半に警戒警報が発せられ、裏庭の防空壕に退避しておりましたが、各地の警報が解除されていたので家に帰り、就寝して間もなく照明弾が投下され、一瞬周囲が明るくなり、玄関から外へ出ると轟音とともに東の空に炎が上がりました。(徳島駅周辺と思われます。)慌てて裏庭の防空壕に退避しました。(警戒警報の時にはリュックサックを持っていましたが、姉を除くみんなが手ぶらでした。)
 間もなくザーと轟音がした途端、焼夷弾の雨。防空壕を飛び出すと隣の家が真二つに裂け、大きく炎を吹き上げていました。(四枚羽根のついた油脂焼夷弾と思われます。)
 危険を感じた私たち家族(母、姉、妹二人、私)は、表に出ることができず、裏側の板塀を壊し、矢三町の周囲が田んぼの中へ避難しました。避難場所(徳島市南矢三町一丁目、現在の西精工の東五十メートルの田んぼの中)から見た景色は、矢三川の南は一面の火の海で、家屋が焼け落ちるときのかわらのガラガラとした音、棟が焼け落ちるときのドサーという音を目前で体験し、恐怖というよりただ呆然と眺めていたように思います。
 上空にはB29爆撃機が旋回しながら焼夷弾(黄燐きりん焼夷弾・六角型)を投下する様子が見えました。飛行機から投下される瞬間パッと光を放ち、しばらくすると火花を散らしながら縦列(何列かはわからない)になって、避難している方向に向かって落下してきましたが、五十メートルくらい先で止まってホッとしました。幸い、田んぼの中に落下したので、被害はありませんでした。
 夜が明けて、父が私たちを捜しにきて、みんなの元気を確認して安心しました。
 父はタンスの引き出しを井戸端に置き、水をかけ、位牌と過去帳を持って避難しましたが、タンスの品物は周囲の熱気で跡形もなく焼失していました。
 焼け跡に帰って東の方を見ると、すぐそばに城山が見えました。今まで家から城山は全く見えませんでしたが、鉄筋家屋の残骸と、白壁の倉が所々に残っているのみで、全くの焼け野原でした。
 焼夷弾の直撃を受けた方、逃げ場を失って焼死した方、防空壕を過信して窒息死した方等、戦災で犠牲となられた方々のご冥福をお祈りいたします。
 (四時間ほどの二度と味わいたくない悪夢です。)

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