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忘れられない日 記憶をたどって:布川 ヒサ子

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市中昭和町 布川 ヒサ子

 一番初めに、怖さを知ったのは、秋田町に爆弾が落ちたときです。当時私は、近所の工場に働きに行っていました。地震かと思うような大きな音と揺れを感じ、窓ガラスが割れ、驚きました。
 見に行ったところ、ものすごく大きな穴があき、付近の家は見るかげもなく壊れ、ケガ人も出て大変でした。
 七月四日未明空襲警報が鳴り、防空頭巾をかぶり裏庭の防空壕に入りました。このあたりは土地を少し掘ると水が出るので、浅く掘って上に土を盛り、作ったものでした。狭い暗い壕の中に入るのを下の妹は嫌がり、はいだしては引っ張り込んだりしました。そのうち大きな爆音とともに飛行機が飛んで来て、瞬間、耳をつんざく音、ゴーゴー、シューシュー、バリバリーと異様な音が響きわたり、やがて北の空が真っ赤になりました。徳島の中央公園の城山の護国神社のあたりであったろうか、ものすごく火柱が上がり空いっぱい赤く染まり、油のにおいで本当に恐ろしかったです。そのうち南の方に雨のように焼夷弾が落ちてきました。裏の家にも焼夷弾が落ち、火の手が上がり、私の家の納屋にも落ち、所々燃え始めました。父は消防団に入っていたので、裏の小学校の警備に行っていませんでした。
 祖父は竹ざおの先に縄を五十センチくらいに切ってくくりつけたもので、所々燃えている火を消していました。私達は壕から出て逃げました。
 母は下の妹を、私は弟を背負い、全く耳の聞こえない祖母の手を引き、小学生の弟妹達と逃げました。弟妹達はそれぞれ大切そうに教科書を抱えていました。門の前で突然、焼夷弾が落ち、一足違いで無事に逃げました。
 裏は広い田んぼで田植えがしてありました。
 焼夷弾が落ちるとシューと消えていたので、田んぼに入るのがよいと思って入りました。でも、泥沼では前には歩けませんでした。泥だらけになり道に出ました。絶え間なく、前後にばらばらと焼夷弾は落ちてきました。弟、妹達を励ましながら逃げました。田んぼのあぜ道にはケガをした人達が横たわっていました。
 空が明るくなり、空襲もおさまり、皆、ケガもなく帰りました。生きた心地はしませんでしたが、家族そろって帰ってこられたことは一番うれしかったです。家に不発弾が落ちているかもしれないと気持ちが悪かったです。納屋は燃えましたが、家はどうもなく本当によかったです。
 夜が明け、津田の方へ逃げていた人達が、疲れきった様子で家の前を通って帰って行きました。あの人達は、家が焼けて無い人ではないのかと心配でなりませんでした。
 私はちょうど二十才のときでした。

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