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とくしまヒストリー ~第23回~

「大滝山」 -城下町徳島の地名11-

 滝の焼餅は、江戸時代から続く城下町徳島の伝統的な菓子だ。焼餅は直径45センチメートルほどの平鍋で、米の粉を練ったものの中に餡を入れて焼き、桜の木型で押し広げて作る。徳島城下の名水錦竜水(きんりょうすい)と阿波和三盆糖を使用しているので有名だ(『聞き書 徳島の食事』)。
 持明院の住職普雄が享保年間(1716~1736)に創始したという(『とくしま 味の四季』が、風光明媚な大滝山の地とは切っても切り離せない銘菓だ。落ち着いたロケーションともあいまって、近代になってからは、大滝山の焼餅屋は、お見合いのメッカとなったという(『江戸おもしろ商売事情』)。
 天正13年(1585)阿波国の大名となった蜂須賀家政は、徳島に築城し城下町を開くとともに寺町を設けた。多くの寺院が勝瑞から移され寺町が作られたが、三好氏の時代、阿波国の祈願所であった持明院を徳島に移し、名西郡入田村の建治寺を合わせた寺院を眉山の麓に建立した。名付けて持明院建治寺(じみょういんこんじじ)という。寺院は、本来、山に設けられたので山号を持ったが、持明院の山号は「大滝山」だった。そのもとは、蜂須賀家政と持明院の住職が城下の人々の飲み水のため滝を探し、その場所を境内としたため、同寺を大滝山と名付けたという(「阿陽忠功伝」)。これが大滝山の地名の由来だ。
 持明院は、城下町を一望できる眉山中腹から山麓にまで広がる。境内には、仁王門、本堂(薬師堂)、方丈、書院、庫裏、客殿、経蔵、太子堂、三重塔、観音堂、八祖殿、求聞持堂、僧庵のほか、天神社、祇園社、愛宕社、茶店など、30近い堂塔・社殿などがあり、城下最大の寺域と伽藍を持ち、観光名所となった。その様子は、文化8年(1811)に大坂で刊行された、阿波の観光ガイド「阿波名所図会」でも絵入りで紹介され、窺い知ることができる。
 持明院は寺領100石を給され、藩から厚く庇護された真言宗寺院。藩主やその家族の健康と長寿をいのる祈祷を行うとともに、参勤交代の際、藩主が江戸に向けて出発する日にちを占うなど、大名蜂須賀家に深く関与し、その呪術的世界を担った。しかし、江戸後期には役割が低下し、さらに神仏分離により明治4年(1871)に廃寺となった。
 その後も、仁王門や薬師堂、三重塔、祇園社、庭園が残り、明治時代の中頃には、それらを中心に造成された大滝山公園では、桜の木が植えられ、桜の名所として徳島市最大の行楽地となった。今では想像できないが、山上には三宜亭などの料亭も存在したのだった。戦前まで、この賑わいが続いたが、昭和20年の戦災で、全ての建物が灰となってしまった。
 現在の大滝山は静寂に包まれている。ただ水の流れる音があるだけだが、往時は、こんなに豊かな歴史があったのだ。それは人々が積み上げてきたものだから、また復活したり、新たな取り組みが生まれることがあるだろう。

[写真解説]
左 三重塔
右 滝の焼餅屋で休む娘遍路

参考文献

『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
『とくしま 味の四季』、徳島新聞社、1983年
『日本の食生活全集36 聞き書 徳島の食事』、農山漁村文化協会、1990年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
根津寿夫「滝の焼き餅屋」(『別冊歴史読本28号 江戸おもしろ商売事情』、新人物往来社、1995年)
根津寿夫「徳島藩参勤交代に関する一考察 ‐「首途」について‐」(『凌霄』10号、四国大学、2003年)

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