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徳島市立 徳島城博物館
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とくしまヒストリー ~第7回~

水の都 徳島

 安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて各地に城下町が誕生したが、その多くが現在の県庁所在地となっていることは以前にふれた。この時期に設けられた都市は、江戸時代だけでなく明治・大正・昭和、そして平成へと継承されたことになる。それは、戦国時代までの軍事だけに着眼した城地選びではなく、政治や経済を意識した場所選びの結果であろう。
 この時期に設けられた城下町に共通する特徴として真っ先に挙げられるのは、水運に優れた立地だ。海外派兵や交易重視といった、天下人豊臣秀吉の国家構想や都市構想の影響なのだろうが、秀吉・家康の時代の城下町は、海に注ぐ河口部に選ばれることが多かった。河口部は護岸工事が難しく、城下町を建設する上では好条件とはいえなかった。しかし、近世大名の強大な力で工事を進め河口部に城と町を建設したのだ。
 江戸時代に入り平和が訪れると、城下町はその立地を活かして水運を活用して栄えていく。水上交通に育まれた城下町は経済発展を遂げ、独自の文化を育み「水の都」となる。江戸や大坂を初め、各地の城下町も水運の恩恵を受けながら大きく成長したのが江戸時代であろう。
 城下町徳島は、新町川や助任川などの大小河川が網状に乱流する中洲に設けられた城下町だ。河川は、今日では陸上交通に障害のように思われているが、船を用いることで多くの物資や人々を輸送することができたので、当時は水上の幹線道路だった。
 城下町を流れる河川のなかで最も利用されたのは新町川であろう。それは城下町の中心商業地区であった内町・新町があったからだ。両町には「雁木(がんき)」と呼ばれる石階段の船着場や川湊もあった。江戸後期の旅行ガイドブック「阿波名所図会」を見ると、新町側にいくつも「雁木」が見える。恐らく、江戸時代には多くの船が泊まり時間を惜しみながら荷物の揚げ下ろしを行ったことであろう。勿論、築堤され石垣に囲まれた武家地でも「雁木」はあった。船は牛馬や大八車などよりも大量に物資を運べたので、町人だけでなく武士たちも有効利用したのだ。
 佐古町は寛永年間(1624~1644)に開発された新興の町だったが、寛文11年(1671)には47人もの住民が藩に願い出て、佐古川を広げて舟運の便の拡大を図ろうとした(『阿波藩民政資料』)。伊予街道口に立地した佐古町は、陸上交通に加え、水運の道が開け大きく繁栄していった。
 水上交通は町人たちだけのものではなかった。藩主の参勤交代の際にも船を使って大坂まで移動した。徳島城を築いた頃は、現在の吉野川である「別宮(べつく)口」を用いたが、寛永時代の終わり頃(1640年)からは、沖洲と津田の間の「津田口」を利用することになった。藩主の乗る御座船(ござぶね)などを収めた水軍の基地が常三島(じょうさんじま)から福島東部に移転したのが大きな理由であろう。藩主は徳島城鷲の門から家臣たちに見送られ福島橋で連絡用の船に乗ると御船歌が歌われ太鼓が打ち鳴らされ、厳かに徳島藩主の参勤の旅が始まる。沖洲で御座船に乗り換え大船団を率いて大坂に赴くのだった。
 城下町徳島は、今では想像できない水上都市だったのだ。


「阿波名所図会」眉山 徳島城博物館蔵(東條英機氏寄贈)

参考文献

団武雄氏『阿波蜂須賀藩之水軍』、徳島市立図書館発行、1958年
特別展図録「秀吉の町・家康の町」、徳島城博物館発行、2007年
特別展図録「描かれた城下町 -水都発見―」、徳島城博物館発行、2009年

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徳島市立徳島城博物館

〒770-0851 徳島県徳島市徳島町城内1番地の8

電話番号:088-656-2525

ファクス:088-656-2466

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