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徳島市立 徳島城博物館
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とくしまヒストリー ~第5回~

城下町誕生秘話 -幻の渭津いのつ

 天正13年(1585)、阿波国の大名となった蜂須賀家政(いえまさ)は、天下人秀吉の命により猪山を城地とし築城を開始し、それと並行して城下町の開設にあたった。当時、城の周囲の地を「渭津(いのつ)」と呼んでいたが、この時に「徳島」と地名を改め町づくりがスタートしたのである。
 徳島という地名を誰が命名したか、数ある文献・古文書は明らかにしてくれない。郷土史家河野幸夫氏は、徳は「富田庄の富とは同意の嘉字(かじ)であり、東には福島という地名もあるので、家政はこれらと関係づけて、つまり福島に対して徳島と、縁起をかついで城地の名称としたのではなかろうか。」(『徳島・城と町まちの歴史』)と推定するが、決め手はないと結んでいる。ただ縁起のいい地名であることと、新城下町としてイメージの一新を図るねらいがあったものと考えるのは容易だろう。ところが、新地名である「徳島」は約100年もの間、定着しなかったのである。
 冒頭にふれたとおり、天正13年に藩祖家政は渭津の地名を徳島に改めた。ところが、孫の2代藩主忠英(ただてる)は慶安5年(1652)2月23日に渭津の旧号に復してしまった(『阿淡年表秘録』)。同年4月4日に忠英は没したが、この後、3代藩主光隆(みつたか)、4代藩主綱通(つなみち)と2代にわたり渭津を使用した。そして26年後の延宝6年(1678)に、相続したばかりの5代藩主綱矩(つなのり)が城地の地名を再び徳島に改めたのである。これ以降、現在に至るまで徳島が使われ続けている。このように、蜂須賀家入国とともに命名された徳島の地名は、100年近くもの間、固定しなかったことになる。
 なぜ2代藩主忠英が渭津の旧号に戻したのだろうか。徳島は、忠英の後見役を務めた祖父家政(蓬庵(ほうあん))が用いた新地名であるにもかかわらずだ。余程の事情があったのだろうが、史料的には分からない。全くの推測になるが、渭津の地名を信奉し、使い続けようとした人々が少なからず存在したからではないか。そうでなければ、元の地名に戻すとは考えられない。だとすれば、これまで寒村程度としてしか認識されてこなかった、城下町徳島の前史である渭津に注目が集まる。ただし、当時の様子が窺える史料はなく、考古学の成果に期待する他はないのだが。
 そもそも渭津とはどのような地名だったのだろうか。渭津とは、3代将軍足利義満(よしみつ)を補佐し室町幕府の管領や阿波守護などを務めた細川頼之(よりゆき)が、至徳(しとく)2年(1385)に名付けたとされる。城山の景色を映して流れる助任川を見て、その美しい姿が中国の古都長安の渭水の画景にそっくりだとして、助任川を渭水、山を渭山とし、山上に築城し「渭津」と命名した。また、これとは別に、城山が猪が伏した形の見えることから猪山と呼ばれ、渭山に転じ、周囲の港を渭津と呼ぶようになったという説もある。前者であれば渭津を根強く支持するのは理解できるが、根拠に疑問符が付くようだ。
 最終的に徳島の地名を選択したのは5代藩主綱矩である。綱矩は、分家から相続し藩主権力としては強固ではない人物だが、相続した日に徳島の旧号に復したのは実に興味深い。綱矩は蜂須賀家の支配の原点に帰すべく地名を徳島に復したと考えることは可能だろう。
 私たちが使用している徳島という地名にはこのような深い歴史があった。地名からは多くのことを学ぶことができるのだ。


「阿波国徳島城図」徳島城博物館蔵、中川完治氏寄贈

[写真解説]

兵学者山縣大弐(やまがただいに)が記したとされる絵図の一つ。景観年代は17世紀で、徳島を「猪津(いのつ)」と記す。

参考文献

河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年

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〒770-0851 徳島県徳島市徳島町城内1番地の8

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