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徳島市立 徳島城博物館
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とくしまヒストリー ~第9回~

城下町の飲み水

 豊臣秀吉や徳川家康が天下を治めた時代、全国各地に城下町が誕生したが、その多くは河口部や臨海地に建設されることが多かった。それは水運の便を意識した選択だった。江戸時代が始まって暫くすると、そのねらいは的中し、水上交通によって城下町は大発展を遂げた。
 立地を活かし近世城下町は「水の都」として栄えたが、その一方で大きなデメリットもあった。それは、人々の生活に不可欠な飲み水に恵まれなかったのだ。城下町は海に近いため井戸水に塩気が入り、飲料に堪えなかった。
 そこで、水源から水を引いて飲み水の確保が図られた。徳川将軍のいた江戸では、承応2年(1653)に、全長約43キロメートルに及ぶ玉川上水を完成させた。元禄期(1688~1704)には100万人都市に成長した江戸の生活を支えたのは玉川上水を初めとした上水道だった。西日本でも、赤穂や鳥取、福山、高松等の城下町では、江戸前期に上水道が整備された。勿論、上水道を引かなかった大坂のような都市もあった。大坂は、井戸水は塩気を帯び鉄気(かなけ)が入り飲むことができなかったので、河水を使った(『近世風俗志(守貞謾稿)』)。
 徳島は河口部に立地した城下町だったので、多くの井戸水は飲料には適さなかった。大正8年(1919)、徳島市の井戸調査では、6,777ヶ所のうち飲料に適さないものが3,358で、実に49.5%を占めた。しかも、徳島市の近代水道の敷設・給水開始は大正15年(1926)のことだった(近代水道の最初は、明治20年の横浜)。

 それでは、江戸時代から明治・大正時代、徳島の人々はどこから飲み水を得ていたのだろうか。

 眉山には、錦竜水や瑞巌水、鳳翔水、八幡水といった湧水があった。これらを城下町の人々は飲み水として利用していたのだ。特に、錦竜水は城下随一の良質な水として評価され、明治41年(1908)の皇太子行啓時の御料水に選ばれたほどだった。
 現代では誰でも自由に錦竜水の水を汲み飲むことができるが、江戸時代には徳島藩が厳重に管理し、水売り人によって水が供給されていた。その歴史は古く、江戸時代前期の延宝4年(1676)、藩は水売り人を16人に限定した(「藩署紀聞」徳島県立図書館蔵)。明治時代になると、水桶を積んだ車を引く水屋が市中を回って販売し、各家では軒先に「水入用」の木札を出しておくと給水したのだった。

 ポルトガルの外交官・文学家、ヴエンセスラオ・デ・モラエス(1854~1929)も眉山の湧水の恩恵を受けた一人だ。モラエスは現在の伊賀丁2丁目の長屋に住んだが、井戸水は洗濯や入浴、庭のまき水に使用し、飲み水は全て八幡水(八幡神社の湧水)等を購入したという。

 明治22年(1889)には全国第11位という多くの人口を抱えた大都市徳島において、大正15年(1926)まで上水道がなくても人々の生活が成り立っていたのは、ひとえに眉山の優れた湧水のおかげだった。しかし注目すべきは、湧水と井戸、飲み水とそれ以外の生活雑水で使用分けした人びとの生活習慣だ。そこには水を大切にした徳島の人びとの暮らしの知恵があった。


「錦竜水の水売りと水汲みの奉公人」大正4年(1915) (『写真でみる徳島市百年』)

参考文献

『日本水道史 総論編』 社団法人日本水道協会 1967年
『日本水道史 各論編3 中国・四国・九州』 社団法人日本水道協会 1967年
『徳島市水道四十年史』 徳島市役所 1966年
河野幸夫氏『徳島・城と町まちの歴史』、聚海書林、1982年
団 武雄「徳島城下と飲料水」(阿波郷土会『ふるさと阿波』33号 1962年)

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