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徳島市立 徳島城博物館
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とくしまヒストリー ~第3回~

城下町誕生秘話 -町人の誘致-

 築城とともに進められたのが城下町の建設だった。江戸時代の城下町は、城と侍屋敷、足軽町、町人地、寺町で構成されている。これは全国の城下町で共通の構成要素で、徳島はこれに加えて水軍町が存在している。
 城下町徳島は、城を中心に同心円状に、上級から下級家臣の屋敷が置かれていた。特に、城に直結した徳島地区に架かる寺島橋・福島橋・助任橋の前後は、橋を守備するように、家老や中老の屋敷が置かれた。上級家臣の家老や中老の屋敷は軍事的に配置されたのであり、城下町の屋敷編成の骨格を占めたのであろう。足軽の組屋敷は富田・佐古・助任地区に置かれた。寺院は眉山の麓に宗派ごとに置かれ、寺町を形成した。
 町人たちが住んだのは、当初は内町・新町・福島・助任だけだった。内町に対して新しい町なので新町なのだが、寛永年間(1624~1644)には内町・新町の差がないほど繁盛していたという(西岡岑久編「阿陽忠功伝」徳島城博物館蔵)。城から新町橋を通り寺町に至るエリアの成立は江戸初期に遡ることが窺える。新町の西に位置する佐古は、城下町の伊予街道口の玄関だが、寛永年間の終わりに町人地として開かれ、江戸中期以降、大発展を遂げた。新町橋を渡り南に進む、土佐街道口の玄関に位置したのが二軒屋町だ。天正13年(1585)に蜂須賀家政が城下町を開いた頃には、人家が2軒しかなかったので「二軒屋町」と呼ばれた(佐野山陰編「阿波志」徳島城博物館蔵)というが、江戸後期には住人が200軒を超える大きな町に成長している(二軒屋町冨士谷家文書)。
 城下町の開設で大切なのは町人の誘致である。安土桃山時代から江戸前期には多くの城下町が誕生し、現在の県庁所在地の都市になっている。開設以前の状態は港湾都市や寒村などとケースバイケースだが、江戸時代に入り平和が到来すると急速に都市化が進んだ。江戸時代は新たに誕生した都市の時代ともいえる。
 城下町徳島では、新領主蜂須賀家政が阿波国内に触れを出して、城下に来て商売を希望する者があれば屋敷地を与えるという優遇策を採った。加えて、先進都市だった堺や蜂須賀家の旧領播磨国、出身地尾張国から商人を招いた。大名蜂須賀家と町人との関係を探ってみよう。
 千利休の甥、渡辺道通(魚屋立安)は父が家祖蜂須賀正勝に仕えた関係から徳島に招かれ、内町に屋敷を与えられ商売を行った人物である。道通に宛てられた利休の手紙(徳島城博物館蔵)を見ると、「蜂小六殿」(蜂須賀家政)から依頼のあった茶釜が見つかったので阿波の家政のもとに届けてくれるよう述べている。この手紙からは家政が利休に師事していたことが分かるが、道通が利休と家政とのパイプ役を務めた人物であったことが注目される。商売だけでなく、関ヶ原合戦にあたり家政は道通の屋敷で剃髪したとされることから、家政にとって道通は友人のような存在だったことだろう。江戸前期には領主と町人という身分差に関係なく交流が行われたのである。道通の子孫は、藩が発行した藩札座本役を務め、徳島藩財政を支えた豪商となった。
 家政を慕って阿波に来国した高砂出身の寺澤六右衛門は、小松島の開発や勝浦川や那賀川の通行税の徴収役を務めている。六右衛門の子孫も座本役として藩札の発行にあたった。江戸初期には、商人といっても領主の必要な物資を調達するだけでなく、国内の開発や大名の支配組織の末端を担ったりと、多様なあり方を示す。ちなみに、「六右衛門小路」は、寺沢六右衛門の屋敷に由来する(「阿府志」)。
 城下町徳島は次第に成長し、武士・足軽等を除く町の住人は、17世紀後半には、家数1,472軒、人数は18,826人を数えた(「御目付衆へ上る阿波淡路両国之事」『御大典記念阿波藩民政資料』)。


「千利休書状」 徳島城博物館蔵 天正14年(1586)

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