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一番は火の始末

最終更新日:2016年4月1日

まず第一に火の用心

住所:徳島市入田町笠木
当時住所:徳島市入田町南谷

 当時は、現在の家から南に1キロ半程ある、南谷という山際の土地に住んでいた。家は、木造一階建瓦屋根で、父母兄弟の六人で暮らしていた。地震が起こったときは、寝ていたが、揺れで目が覚めた。最初、小さな揺れだったが、2~3秒後に「ガタッガタッ」と大きな揺れになり、家が崩れるのではないかと思い、私だけが思わず庭に飛び出していた。後の家族の者は、起きていたが、外に出ることは無かった。揺れは、とても大きくまともに歩ける状態ではなかった。2~3分揺れ続いたように思う。とにかくとても長い時間に思え、怖いものだった。その後、余震も数回あっただろうが、はっきりとは記憶していない。大きな揺れではあったが、幸いにして、瓦が落ちたり、家が軋んで戸が開かないということはなかった。それは、私の家は、軒をつけるのに「持ち出し張り」をつけていて丈夫だったということが、被害の無かった要因のひとつだろうと思う。入田地区では、被害もけが人も出ることは無かったようだ。また、山の上の方では、小規模の山崩れはあったが、被害に至るようなものでは無かった。ここらは、昔から地盤が強く、何か自然災害の起こったようなことはない。その後、人のうわさなどで、海部あたりの津波の被害を知った。
 今後の地震に関して、ここらは、山なので津波の心配はないが、火災が一番恐ろしいと思う。地震だと思ったら、何より火を止めることが最も重要だと思う。しかし、いざ地震が起こってしまうと、パニック状態になって、冷静な行動ができないだろうと思う。

災害時は火の始末が一番

住所:徳島市川内町榎瀬
当時住所:徳島市鷹匠町1丁目

 戦災で家を焼かれ親戚に身を寄せていたのですが、夫が復員して来ましたので鷹匠町にバラックを建てて住んでいました。大きな揺れで目が覚め飛び起きて、当時のコタツは豆炭でしたから、置いておくと火事になると困るので急いで外へ捨てました。それから子供を背負って外へ出ました。外には隣のご主人が居て「おい、津波が来るんとちゃうか~、井戸水の水位で津波がわかるんじゃ」と言って、町内に一つあった井戸を見に行きました。暫らく見ていましたが、何の変化も無かったらしく「津波はけえへんわ」と教えてくれました。私達は揺れが収まってから家の中に入りました。30~40分ぐらいは外に居たように思います。地震は横揺れで相当長く感じましたが、揺れが収まってからはいつも通りの生活をしました。あの頃は生活するのに困っていた時代ですので、地震によって特別に困ったということはありません。
 教訓としては、落ち着いて火の始末をしてから逃げるということでしょうか。揺れが収まったのに家が燃えて無いでは困りますし、ご近所にも迷惑がかかると思います。

こたつを外に

住所:徳島市大道3丁目
当時住所:現住所と同じ

 戦後間もなくて我が家から徳島駅が見えたぐらいポツポツしか家が無かったときでした。我が家も戦災に遭いバラック建てに五人が住んでいました。朝早く揺れで目が覚めて一番に窓と戸を開けて、夫が火事になってはいけないとコタツを外へ出しました。戸を開けに行くのに一間のところを普通に歩けないほどの大きな揺れでした。そのうちに家の前を大勢の人達が走って行くので「何処へ皆行っているのですか」と聞いたら「津波が来るから山に逃げていっきょる」と言いながら金毘羅さんに向かって走っていました。我が家では夫が「ここにおったら大丈夫じゃ、家もあんまりないし」と言うものですから親子で家の中におりました。結局津波は来ませんでしたし、家にも被害はありませんでした。余震も無かったように思うし、水道も止まらず、揺った後はいつもの生活をしました。地震で恐いのは火事だと思います。くれぐれも火の元には注意しましよう。

豆炭こたつを抱えて

住所:徳島市南沖洲二丁目
当時住所:現住所と同じ

 地震の前日、麦畑で「てびき」という農機具を使って農作業をしていた。その「てびき」を軒下に立て掛けてあったため、翌朝の地震の時にそれが倒れていた。母が、生まれたばかりの妹を連れて逃げるときにその「てびき」につまづいて、向こうずねにけがをした。当時、医者がいなかったので、アルコールで消毒して、近所の祈祷師に拝んでもらった。母は、しばらくの間、上手く歩けなかった。
 家は7cm程傾いたが、補修してもらうにはお金がかかったため、父がセメントを詰めたりして補修し、その家は昭和44年まで持ちこたえた。
 地震のとき、私は着の身着のまま逃げたが、私と弟2人は、当時の引き出しが付いた豆炭こたつを抱えて風呂場へ逃げていた。子どもの頃から火事を出してはいけないことを祖母から聞いていたため、こたつから火が出ることを恐れて持って逃げていたことが、後になって笑い話になった。
 戦後であったため、防空壕が残っており、食料や着物などの保管庫として使っていたが、地下水位が上がって、防空壕の中が水浸しになり、母が保管しておいた赤い襦袢の色が、米に染みてピンク色になっていた。それでも、祖母がその米を洗って何日も陰干しし、粉に挽いて団子を作って食べさせてくれたのを覚えている。
 地下水位は上がっていたが、直接の津波の被害はなかった。近所もほとんど被害はなかった。
 地震を経験しての教訓は、昔の人の知恵をしっかり聞いておくこと、家族の話し合いをきちんとしておくことを孫子に教えたいと思う。

火鉢を必死で持ち出す

住所:徳島市大原町余慶
当時住所:徳島市西船場町

 この年の5月から私は、西船場町2丁目にある「阿波商業銀行本店」に勤務していた。実は、地震を体験したのはこの勤務先の宿直室でのことだ。本店の建物に付属した、木造1階建てバラック様の宿直室に、当時まだ独身だった同僚五~六人と、宿直にあたっていた日だった。同年代の者同士ということもあって、話が弾み、誰も寝ること無く夜明けを迎えようとしていたそのときだった。「ぐらっ、ぐらっ」と大きな横揺れが始まり、誰もが「おおっ、地震だ」と口にした。すぐに収まりそうに無い地震に、皆の目が暖をとっていた大きな火鉢に注がれた。すぐに、「火事を起こしてはならん」ということで、揺れ続ける中、必死でその火鉢をふたり掛かりでかついで、おもてに出した。様子を見ようとそのまま通用門を通って外に出て、西船場の通りに目をやると、銀行と隣の商工会議所の間にある木の電柱が大きく揺れ、電線が切れて、火花が「バチッ、バチッ」と飛び散っていたので驚いてしまった。その間中、揺れ続けていたのだから、とても長い時間揺れていたのだと思う。また、助任方面、方角にしたら北東の上の方で、稲妻のような白っぽい光が走り、あたりが薄明るくなったことを記憶している。
 地震後、15~20分して、「津波が来るぞ」の声が聞こえ、人々が、三々五々、藍場方面から大八車を引いて山に向かって避難していた。川では、新町川の水が、海側に「ダッーッ」と一気に全て引いてしまい、次に「ゴーッ」と海鳴りがしたかと思うと、川下から水が一気に流れ込んできて、春日橋の橋桁いっぱいまで押し寄せた。その波は、当時の佐古の貯木場から、材木を全て引き込んできて、材木同士が「ゴトン、ゴトン」とけたたましい音を立ててぶつかり合っていた。このとき初めて、津波の現象や、水のエネルギーのすごさを知り、心底怖いと思った。幸い、会社やその周辺の家で、被害が出ることは無かった。
 今後、このような大きな地震が起きたら、建物の高さも、家の密集度も当時とは大きく違っているので、すぐに外に飛び出すのではなく、様子を見極めて、冷静な判断をしなければならないと思っている。また、火災が起こったら大変な惨事になってしまうので火の元にも十分気をつけなければならないと思う。

火にだけは敏感に

住所:徳島市応神町西貞方字中園
当時住所:現住所と同じ

 私が家で寝ていると、突然「ドーン」となって家の中がガタガタ揺れたので、驚いて起きた。先人の教えで「障子がはずれたら、家がこける」と聞いていたので、家の外に出ようとしたが、地震の揺れと恐怖心から立つこともできず、畳の上に座って動かなかったことを覚えている。揺れは止まったかなと思ったら、再度揺れだし、地鳴りがひどく電線がショートしたことで青白い光がピカピカしていた。当時家の外にあった藍の寝床が倒れてしまっていて、母屋も揺れの影響で少し傾いてしまっていた。また、近くの鳥居も倒れていたし、鉄橋のレールも歪んでいて地震後に修正されていた。
 当時、水といえば竹の筒を地下水のある深さまで地面に差し込み、そこから水を取る「掘りぬき井戸」だったが、地震後は水が出なくなったり、出なかったところから出たりしていた。また、家のある場所一体は地盤自体が軟弱なので、液状化が多くみられた。津波は吉野川の水が押し込んできているなといった程度のものであった。昔から「井戸の水が引いたら、津波が来る」ということは知っていた。
 地震で一番困ったことといえば、やはり農地の液状化だった。土をならすのがとても大変だった。
 逆に助かったこととしては、倒れた家があれば、周囲の人がその手伝いに来てくれ、炊き出しなどもしてくれたことである。
 現在、指定されている避難場所の位置は非常に遠いが、私の場合は家と家の間も広いので、逃げるところは多くあると思う。
 特に次の地震に備えていることはないが、火にだけは敏感にしている。住宅密集地と田舎の農家とでは、考え方が違うということも考えておかなければならない。

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