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地域コミュニティ

最終更新日:2016年4月1日

近所との繋がりが大事

住所:徳島市川内町榎瀬
当時住所:徳島市助任橋2丁目

 まだ日も明けて無いときにドスンと大きな揺れがしたので目を覚ましました。そのうちに横揺れになって来ましたので「あれ~地震じゃ~」と言いながら子供二人を連れて外へ飛び出しました。70歳を過ぎた母は、少し前に縁側から踏み外してケガをしていましたので自力で出ることができませんでした。だから近所の若い人に母を連れ出して欲しいと頼み外へ出してもらいました。裏に芋畑がありましたので、そこへゴザを敷いて1時間ほど居たように思います。揺れが大きくて恐かったのですが、我が家も近所も倒れた家も無く井戸水にも被害はありませんでした。近くに助任川がありましたが増水をしたという記憶はありません。揺れが収まってから、いつも通りの生活をしましたので困ったことはありませんでしたが、地震時にケガをしている母を連れ出すのは大変でした。
 こんな災害時に御身体の不自由な方のいらっしゃる家庭は大変だろうと思います。こういうときのためにも常日頃から近所との繋がりが大事だと思います。

老人を救った町内の結びつき

住所:徳島市川内町下別宮
当時住所:現住所と同じ

 私は当時、現在の家の隣に建っていた木造の平屋に住んでいて、寝るときは隣の木造瓦ぶきの納屋の座敷を使っていた。地震が起こったときも納屋で寝ており、急に大きな揺れが襲ってきたことを今でも良く覚えている。地震は相当長く続いたように思い、それまでに経験したことがなかったため、驚きと恐怖が込み上げてきた。そして避難しようとしたとき、窓は開かなくなり、入り口の戸は中二階が落ちてきてふさがれたため、中に閉じ込められた状態で地震が静まるのを待たなければならなかった。しかし幸いにも、私たちを含めた周りの住民にもケガはなく、火事の被害もなかった。そして、近くの散髪屋とその隣の家が倒壊しても、町内の人の協力で、家の中にいた寝たきりの老人を連れ出すことに成功し、大惨事には至らなかった。
 漁師が地震後、海へ舟を見に行ったところ、潮が引いて海の底が見えていたという話を聞いた。一方津波の被害は、小松海岸で砂浜や防風林が削られた。家の周辺でも地震後30~60分後に、吉野川で下流から上流にむけて「ごぉぉー」という音がした。堤防が切れて襲ってきたということはなかったが、地震による地盤沈下で、海抜0m地帯であるこの周辺は、川の方が陸地より上になって、水圧により地面から潮が吹き上げた。また液状化現象により、その塩害で農作物が大被害を受け、植えても植えても発育しない状態が続いた。このように、津波による人的被害はなかったが、その後の復旧作業が大変だった。また当時は戦後間もない時期で、自然災害による防災対策も熱心に行われておらず、避難場所も明確にされていなかったというのが現状であった。
 また近い将来起こると予想されている次の南海大地震に向けて、本当に怖いのは、地震よりも津波の方だと思う。この周辺の地域は地震が起こっても家と家が離れているため、大きな被害は起こりにくく、それより津波が起こると海抜の低いこの地域では、堤防が切れたら大被害は免れない。さらに近くに高い場所の避難所がないので逃げる場所がないため、できるだけ早急に丈夫で高い堤防を造ってもらいたい。

年よりは一緒に連れて逃げること

住所:徳島市北沖洲一丁目
当時住所:現住所と同じ

 揺れで飛び起き、二階から急いで逃げました。祖母と同じ部屋で寝ていたのですが、なかなか祖母が起きて来ないので不思議に思い揺れが収まってから見に行きましたら、「腰が抜けて歩けん」と寝ておりました。我が家では壁に隙間ができたぐらいで、殆ど被害は無く津波の影響も無かったので私はいつも通り仕事に出かけることができました。通勤途中にかちどき橋の下で何艘もの舟が重なって壊れているのを見て津波の恐さを知りました。
 教訓として祖母の体験から、お年よりは咄嗟のときに動けなくなることがありますので必ず一緒に連れて逃げること。そのためにも家族の中での話し合いや近所同士のコミュニケーションが大事だと思います。また防災訓練も大事だと思いました。地震が起こったときに素早く対処できるのではないでしょうか。

炊き出しのおにぎり

現住所:徳島市国府町早渕
当時住所:徳島市不動町

 当時十五歳で、木造平屋の茅ぶきの家で父母妹ら家族八人が住んでいた。前日は法事であり、地震はよく揺れて、雨戸が西へ飛んではずれたので、よく覚えている。横揺れで長いように感じた。家が2m程軽く横に傾き、隣の馬小屋にもたれかかり倒れた。自分は、玄関の上り端でいて外に出たが、祖父が家の中に閉じ込められた。親戚や近所の人が駆けつけてくると、祖父が何か言っているということで、屋根を開き、助け出した。運良く、天井が一坪程開いていたところに体が入り、無事であり、暖房用の豆炭で、少しふとんを焦がしたくらいであった。また、近所の人が、炊き出しのおにぎりを持ってきてくれ、それがおいしくてうれしかった。消防団はあったが、特に活動はなかったようだ。
 兄嫁のたん笥は潰れ、鏡は家から飛び出したが、幸い割れなかった。倒れた家の炊事用の「おくど」は壊れなかったので、次の日からは使い、納屋に板を張って住んだ。余震はわりと大きく4~5日はあった。井戸は覚えていないが、電気は1~2日こなかった。兄嫁は妊娠中でたいへんだったし、苦労したと思う。近所には大きな被害がなかったのに、自分の家が倒れたことが、娘心に恥ずかしく辛かった。学校へは行けないかと思ったが、冬休み中に心の落付きを取り戻し、学校へ行ったが、あまり楽しくはなかった。
 この話も今まで誰にも言わなかったが、今回伝えることにした。幸いであったのは、家族にけがはなく、祖父も無事に救出され、豆炭も外に出せて火事にならず、家の中の品物も助かったことである。

看護婦さんの冷静な対応

住所:徳島市栄町4丁目
当時住所:現住所と同じ

 当時の住まいは、現在と同じ栄町なのですが、地震が起こったとき私は、その頃でいう陸軍病院(現在、市内蔵本の徳島県立中央病院)におりました。病気で入院していた母の看護のために付き添っておりましたので、ちょうど病院で寝泊りをしているときでした。病室は、数人の患者さんとご一緒の大部屋で、何階だったかはっきり記憶しておりませんが、二階以上の階であったことは記憶しております。病室の母のベッドの脇で眠っていたのですが、すごい揺れを感じて目が覚めました。すぐに「地震」だとわかり、とにかく起き上がらなければ危険だと思い、あわてて立ち上がりました。立っていられる程度の揺れでしたが、建物全体が揺れているので強い恐怖感がありました。同じ病室の皆が一様に不安の面持ちで立ち上がっていました。そのうち、各病室に「大丈夫ですよ。あわてないで廊下に出て下さい。」という看護婦さんの声掛けが響き渡り、病室にいた皆がパニックを起こすこと無く、急いで廊下に出ました。そして、病院側の指示を待って待機していました。結局、どこか別の場所や外に避難するということも無く終えました。その看護婦さんたちの冷静、沈着な対応は今でも強く印象に残っています。その落ち着きが、私たちの不安感を和らげてくれたように思います。余震も数回あったのでしょうが、はっきりとは記憶しておりません。病院全体の被害状況は存じませんが、幸い、私のいた病室では何の被害もけが人もありませんでした。けれども隣の病室では、退院間近の人の寝ていたベッドの横の壁が剥がれ落ちてしまったというのです。そして、落ちた壁が足に直撃し、けがをしたため退院が伸びてしまったというお気の毒な話を聞きました。
 その後、栄町の自宅に戻ってみたのですが、バラックの家は無事で、また家の中には倒れるほどの大きな家財も無かったので、特に被害は出ておりませんでした。

消防団の活躍

住所:徳島市大原町壱町地
当時住所:徳島市新蔵町

 当時の住まいは、新蔵町にある「東消防署」の東側にあたる場所でした。家の前は、土手で、東に向かっていけば福島新橋の通りです。昭和20年7月3日、夜中から早朝にかけて戦災にあい、焼け野原となったその所に1軒ポツンとトタンでバラック小屋を建てて両親と兄の四人で生活しておりました。地震が起きたときは、早朝でしたので、寝ていましたが、ハッと気がついて目覚めました。最初、「ドーン」という上下の揺れで、次に横揺れが始まり、いつもと違う揺れ方だと感じました。当時、小学3年生だった私を、母はとっさにおんぶしてくれていました。私を背負ったまま外に出て、井戸のふちにつかまりながら逃げようとした母でしたが、揺れがすごく、まともに歩けない状態でした。井戸の水も「バチャ、バチャ」と波打っていました。母に背負われた私は、母の体が大きく揺れる度に、井戸の中に滑り落ちてしまうのではないかと思い、怖くて気が気ではありませんでした。普段なら、小学3年生にもなった私をおんぶすることなどありえないのに、私を案じて背負って逃げようとしてくれた母に、深い愛情を感じました。と同時に、私も小学3年にもなりながら、母におんぶしてもらったことが、今思えば気恥ずかしい思いで一杯です。
 暗い中、あちらこちらで、電線がショートしていたのでしょう「ピカッ、ピカッ」と赤い光を放ち、不気味で怖い思いをしたことが忘れられません。1~2分ほど揺れ続いたと思います。揺れが収まり、「ホッ」としていると、警察や消防団の方が、メガホンを持って、「津波が来るぞー」とふれ渡ってきました。近所の人の話では、新蔵町と中洲町は、新町川に近いので、末広の「三ツ頭(みつがしら)」と呼ばれていた東方向から、大きな波がうねりながら押し寄せてきて、「見るのも恐ろしいものだった」と聞きました。私の家の前の道路は、今ほど高くなかったので、ひざ下くらい水が上がっていました。けれど、我が家は、道路より数段高く、また、大潮のときには道路によく水が上がって来て、慣れておりましたので、特に避難はしませんでした。そのまま朝食の用意をしていると、その煙を見た消防団の方が、再度、避難するように回ってきてくれました。住民の安全を気遣って、何度も回ってきてくれた消防団の方に感謝しております。
 この地震を体験して思うのは、「いざ地震が来ると、思った通りの行動ができない」ということを実感しました。そのため、日頃から避難場所の通路の確認などをして、より安全に避難できるように努めていなくてはならないと思います。

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〒770-8571 徳島県徳島市幸町2丁目5番地(本館7階)

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