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備えあれば憂いなし

最終更新日:2016年4月1日

大切な物はひとまとめに

住所:徳島市東出来島町
当時住所:現住所と同じ

 朝うつらうつらしているときに急に揺れ出しましたので飛び起きました。揺れは横揺れで船に乗っているみたいでした。当時は4畳と6畳のバラックに住んでいました。4畳の方には小学生のふたり、6畳は夫と私、赤ん坊と3歳の子供が寝ていました。バラック建ての窓は低いので子供達に「はよ、みな起きて外へ出ない(早く皆起きて外へ出なさい)、角の真ん中に行くんでよ~」と言って私も赤ちゃんを抱いて何かを掴んで外へ出ました。夫は揺れが凄いので立って居られなくて、這いながら大事な物を捜してから子供を連れて外へ逃げました。私は落ち着いて自分の持っているものを見ると手に有る物はオムツでした。揺れが収まってもまた余震があるかも知れないと思って、夫がむしろを取りに中に入り、私は飲み水を汲みに井戸へ行きました。つるべを降ろしたらいつもの汲めている所で汲めずにもっと下までつるべがいくものですから覗きこむと、真っ暗で見え難かったのですが水が引いて無かったのです。もうびっくりしました。
 外から誰の声かわからないけれど「津波が来るやわからんでよ~」と叫んでくれたので、夫が「城山しかないだろう」と言ったのですが様子を見ているうちに行くのを辞めました。家の中は棚の物がほとんど落ちていて後片付けが大変でしたが、お水はお昼頃には出てきたので食事と洗濯はできました。
 私の体験から大切な物はひとまとめにしておくことが大事だと思いました。

枕元に着替えをひとまとめに

住所:徳島市応神町吉成
当時住所:徳島市応神町

 大きな揺れで目が覚めて、着の身着のままで外へ飛び出しました。裏の庭に出たら前の家が横揺れに大きく波打っているのが見え恐ろしかったです。立って居られなくて座って揺れが収まるのを待ちました。揺れが凄かった割には幸いにも被害といえば、家の建て付けが少し悪くなった程度でその他にはありませんでした。
 地震対策として、あのときは寝間着のままで飛び出しましたので寒くて困りましたから、今では枕元に着替えをひとまとめにして置いています。
 阪神大震災のときは非常袋を用意していたのですが、時間が経って賞味期間が切れたりして今はそのままにしています。見直さなければならないと思っています。

大事な物の置き場所を決めて

住所:徳島市蔵本元町1丁目
当時住所:現住所と同じ

 朝早くに大きな揺れで目が覚めて、急いで家族全員で外へ逃げました。当時、私の家の二階には医学生が下宿をしていましたので、外から母が、その人たちに向かって、「はよ~下りてきなさい」と叫びました。6人ぐらい下宿していたと思うのですが、飛び出して来たのは、高松出身の3人の方々でした。彼らは寝間着姿で裸足でした。私は常日頃から下駄の置く場所を決めておりましたので、下駄を履いて出ることができました。揺れが収まってから、外にも出ないで部屋でずっと寝ていた学生さん達に、何故出て来なかったのかと聞きますと、彼らの故郷は神戸で、その頃、神戸周辺では年中地震で揺れていたらしく、地震に慣れてしまっていて、全然恐怖感が湧かず、そのまま寝ていたそうです。それを聞いて「暢気なものだ」と思ったのを覚えています。
 近い将来にまた大きな地震が来るかも知れないと言われていますが、常日頃から、何処に何を置くかを決めておき、大事な物は一まとめにしておくと良いと思います。

懐中電灯を枕元に

住所:徳島市丈六町山根
当時住所:徳島市大和町

 当時、お嫁に来て間もない頃で木造中二階の瓦ぶきに住んでいました。大きな揺れで目が覚めて飛び起きました。暗いので電気をつけようとしましたら、もうすでに停電になっていました。戸を開けようとしたのですが開きませんでした。窓から海の方を見ましたら稲光がして、津波がくるかも知れないと思いましたが、この辺は大丈夫でした。家の中ではタンスが倒れていましたが幸いにもケガをした人は誰もいませんでした。近所の人も大丈夫だったと思います。私の実家は小松島にあるのですが、そこは大分被害があったと聞いて心配をしたのを覚えています。
 あのときに真っ暗で全然周りが見えなくて這い回り凄く恐かった記憶がありますので、あれからずーと懐中電灯を枕元に置いて寝ています。

リュックを常時用意

住所:徳島市川内町榎瀬
当時住所:徳島市八万町内浜

 一九四六年昭和南海地震の発生当時、私は小学校4、5年で、徳島市八万町の木造平屋の自宅で寝ていました。そこに大きな揺れを感じ、目を覚ました私は、寝たきりの父をそのままにして行けないため、外へは避難せず、母と3人でいつでも避難できるように、私は、空襲のときに使った防空頭巾を頭からかぶり、家で待機していました。近所の人は、みんな近くにある天理教会に避難して行きました。そこは、戦時中でも避難場所にされていて、普段から何かあれば「天理教会に避難」というのが習慣になっていたからです。この後、地震が何分続いたかわかりませんでしたが、何回も揺り返しが続き、また当時のうす暗い電球の下、恐怖心が倍増し、何時間も続いたように感じました。
 この地震によって、死傷者や山崩れ、また津波は、当時子供だった私の耳にとどいた話では被害はありませんでした。しかし、地震により炭置き小屋が傾いたり、同級生の友達の自宅で、倒れたこたつから引火し、ぼやが起こったことなどがありました。さらに私の家でも地震の後、障子が閉まらなくなったり、井戸の水位が上昇し、水が濁っていました。私たちは井戸水が正常に戻るまでの2日間、水を2度ごしし、さらに沸騰させて使っていました。
 私は昭和の南海地震を体験し、現在では、中にカンパンや水、懐中電灯をいれたリュックを常時用意するようにしています。このようにいつ地震が起こっても対応できるよう備えておくことが大切だと思います。

安全な場所の確保

住所:徳島市国府町西黒田字東傍示
当時住所:徳島市勝占町片志

 まだ女学生だった私は、草やぶき平屋に、祖母、両親、兄弟の七人の家族と共に暮らしておりました。地震が揺ったときには、まだ寝ておりましたが、激しい横揺れに目が覚め、着の身着のままで家の庭に出ました。他の家族も皆庭に出ました。あの揺れの中にも母は、火事を起こしてはならないと「火鉢」をかついで庭に出ておりました。昔から母は、「災害」などにはとても敏感で、旅行をする際にもいざというときに備えて「懐中電灯」や「ろうそく」などを携えて行き、ひとつ先の準備というものを怠らない人でした。
 地震は、東西気味の横揺れで、2~3分ほど続いたように思います。揺れが長くて、とても恐ろしいものでした。地震が収まり、しばらくは庭に待機しておりましたが、夜が明けた頃には家に戻りました。私の家は、石を積み上げた石垣で、地面より10mほど高い所に建っておりました。そのため地盤が強くなっていたのでしょうか、家の周囲や家の中の被害は、ほとんどありませんでした。また、山の岩盤のすぐ傍に建っていたのですが、もともと岩盤も強いという話は聞いたことがあります。停電は、1日ほどあったでしょうが、生活するのに困るようなことはありませんでした。その日か、翌日か、はっきり記憶しておりませんが徒歩で小松島の学校に参りますと、ガラス窓は割れて全滅で、戸は、建物全体がひずんでしまって開けることができませんでした。沿岸部に住んでいる人達は、地震による津波の被害が相当なものだったのだと驚いてしまいました。
 今後、このような大きな地震が起こったとき、最も不安なのは、現在住んでいる家が古いので、耐震は大丈夫なのだろうかということと、庭にある蔵が横長くて、やはり壊れやすいのではないかということです。外に避難するにしても、上から何も落ちて来ないような安全な場所を確保しておくことが大切だと思います。

広いところに避難

住所:徳島市八多町金堂
当時住所:現住所と同じ

 その日は、兄弟三人と共に二階の部屋で寝ていた。祖父と両親と一番下の弟は、一階の部屋で寝ていた。「ガタッガタッ」という音に目が覚め、地震だと思い跳ね起きた。男兄弟三人一緒だったせいか、格別の恐怖心は無かったが、すごい揺れ方にやはり驚いてしまった。一階の両親たちは、庭に避難していたようだ。揺れが収まらないうちに、外から、がやがやと声が聞こえてきたので、窓から外を覗いて見た。すると、近所の年寄りや、家族七~八人ほどがこちらに向かって来たので「あれっ、おかしいな」と思った。というのも、うちの家は一番奥に入ったところなので、避難するにもこちらからは通りの方へ出られないはずだからだ。揺れが収まって外に出てみると、父が「地割れが恐ろしいけん、皆、裏の竹やぶに避難して来とる」と言った。それで、さっき人が向かってきた理由がわかった。
 昔から、竹やぶは、竹の根が強く張っているので地割れが起きることが少ないということを父から教わった。地震後父が、「こないなこともあるんやなー。いつどこでどんな地震が揺るかわからんでなー」と言った。そして、父は「まだわしが若かった頃にあった地震の方がもっとごつかったけん、これ位の地震はたいしたことない」とも言った。結局、幸いなことに、近所では地割れは無く、家や人にも被害が無かった。近くの山で小規模な山崩れはあったようだが、被害にあうようなことは無かった。しかし、私の友達の家は、八多山を1kmあまり入って山に登ったところにあったが、家の石垣が崩れて家が壊れてしまったという話を後で聞いた。
 地震後、津波があったと聞いて、小松島に行ってみたが、家が壊れていたりして多くの被害が出ているのを見た。
 地震は、父が言うとおり、予告無しに突然来るので、揺れ出したら家や建物から離れて広いところに避難するようにしないと危険だと思う。また、広いところで、車の中にじっとするのも良いかもしれないと思う。

避難通路の確保を

住所:徳島市八万町橋本
当時住所:徳島市八万町橋本

 私の家では、当時、牛を飼っていた。その日は、夜が明ける前から牛が「モー、モー」と鳴いていたので目は覚めていたのだが、まさか地震が揺るとは思ってもいなかった。当時の住まいは、現在建っている家から200mほど離れた場所で、木造二階建て瓦ぶきに、父と兄弟姉妹の五人で暮らしていた。地震が揺っている間は、家族全員そのまま部屋にいて外には出ず、揺れが収まってから様子を見るために外に出てみた。近所の人達も数名外に出ていて、「横揺れで凄かったわなー」と口々に地震の凄さを話し合った。
 外に出ているとき井戸に目をやると、水が「サーッ」と引いていた。そして、10分から15分後に冷田川の水が全て引き、近所では「津波が来るゾー」という声が聞こえた。その声を追うようにして、川には水が押し寄せ、水位が見る見る上がっていった。川が氾濫することは無かったが、津波が来たことを確認した。それ以来、ここらの地区は、年々沈下しており、その関係か、法花の橋の少し先までしか来なかった潮が、今ではもっと先の方まであって潮が混ざってしまっている。地下水も、以前なら3mも掘ると水が噴きだしていたが、今では、掘っても水は出てこない。地下水もグンと減っている状況だ。
 この地震での直接的な家の被害や、けが、火事などは無かった。もともと民家がほとんど無く、今のように家が密集していなかったことが、被害の無かった要因だと思う。
 今、このような大きな地震が起こったら、当時とは環境がかなり変わっているので、すぐに飛び出すのではなく、家々のブロックや建物からの落下物などに特に気をつけて、避難通路を確保する必要があると思う。

家族で避難場所の確認を

住所:那賀郡相生町
当時住所:徳島市大和町2丁目

 地震が起きた当時、私は二十一歳で、警察職務についていた。年末恒例の夜の「張り込み」を夜明け前に終えて、大和町にある木造二階建ての下宿に向かって帰路についていたときだった。福島新橋の手前に差し掛かったとき、前方の空で、「ピカッ、ピカッ」と発光現象が起こり、その後すぐ「ゴォーッ」という音と共に地震が起こった。千鳥足になるほどの強烈な横揺れに、「地球の最後」だと思ったほど恐ろしかった。私の感覚では、5~10分も揺れ続いたように感じた。足元が不安定なまま、避難できる場所をと考えたが、思い当たらず、とにかく下宿に戻ろうと、必死で家のほうに向かって行った。その最中、背後でバラックが1~2軒崩れ落ちるような音が聞こえて、追い討ちを掛けるような周囲の気配に恐怖感は頂点に達していたと思う。やっとのことで、家にたどり着いた頃には、地震も収まっていた。下宿の近所には、わずかに家が建っていたが、崩れたりしている家は無かった。私の下宿先も無事で、火事が起きたり、けが人が出たということは、無かった。
 下宿に戻って、少しして、外から近所の人の「津波が来るぞー」という声を聞いた。そして、大和町の用水の水が、「サーッ」と引いた。地震直前に見た発光現象や、用水の水が引いたという出来事は、地震や津波の前兆だったのだと思う。徳島市内の津波に関しては、直接見ていないし、特に避難もしなかったので、詳しいことはよくわからないが、津波の被害の大きかった海南の浅川地区には、救助などのために多くの警察官が派遣された。
 地震後、困ったことは、橋が壊れてしまい、外に出ることができず不便だったことを覚えている。とにかくこの地震では、「生きとることだけで精一杯じゃ」と強く思った。
 今後、これよりも大きな地震が起こりうるとの予測があるが、当時と今とでは、環境や設備などが大きく違うので、災害を想定した日頃からの防災訓練や避難訓練の必要性が高いと思う。また、各家庭では、防災袋を常備したり、避難場所を家族間で話し合ったりして、個人でも意識を高め、いざというときに備えておくことも大切だ。それが、被害を最小限にとどめることにつながるだろうから。

日頃から逃げ道の確保を

住所:徳島市住吉二丁目
当時住所:現住所と同じ

 当時、夫は戦死したが、事業を営む夫の両親と共に、戦災で焼けた家の跡地に、新しい家を建て直して住んでいた。下駄を作る工場を営んでいたので、家は、工場と住居が兼用となっていた。地震当日、私は幼い次男と一緒に寝ていたが、揺れを感じて、次男をおぶって庭のまき囲いにしがみついていた。長男は姑たちと一緒で無事だった。直接の地震の被害はなかったが、しばらくして、「津波じゃー」と言いながら近所の男の人が走り回っていた。そのあと、「渡辺の2階に避難せー」と言って、近所の平屋に住んでいた人たちが、荷物を背負って私の家の2階へ避難してきた。
 当時、私の家は、この辺りで一番高いところにあって、大きな台風のときでも浸水しなかったため、近所の人の避難場所になっていた。幸い津波の被害もなかったが、堤防の方では、材木がものすごい勢いで打ち寄せられていた。
 昔は、この辺りに広い田圃があり、家も密集していなかったので、逃げることができたが、今では、たくさんの家が建ち並んで、広い空き地も少なくなっていて、逃げ道をつくることが難しくなっている。現在この辺りの避難場所は、城東小学校となっているが、万が一のときの逃げ道を日頃から確保しておくことが大切だと思う。

とっさの避難に備えて

住所:徳島市上八万町下中筋
当時住所:徳島市沖浜町居屋敷

 現在の「ふれあい健康館」から南のあたりに、当時地震を体験した家があります。その頃は、木造中二階の瓦ぶきの家に、祖母、両親、兄弟姉妹の七人家族で暮らしておりました。地震が揺った日は、一階の部屋で寝ていたのですが、「ドドンッ」という大きな揺れにびっくりして飛び起きました。そして、まだ眠っていた下の子たちを急いで起こし、綿入れの「ねんねこ」を羽織って、無我夢中で庭に飛び出しました。
 庭に出てから、大人たちが井戸を見て「井戸の水があがっとる」といいました。確かに、普段なら「つるべ」を3回ほどたぐって水を汲んでいたのですが、3回もたぐらないで水が取れる状態で、1mほど水位が上がっておりました。家の前面道路でも、水が「さっー」と走って流れておりました。津田の方で潮が差してきて、水が上がったのではないかと思います。地震から数年後井戸は潮が混ざり、濁りも出て、生活用水としてはふさわしくない状態となりました。そのため、水を汲みに共同水道によく行って、とても困った思いをしました。地震後、10分から20分経ってから家に戻りました。家や近所には特に被害はありませんでした。また、その日の未明に、文理大のあたりから、山城方面の人達が、避難をしている声を聞きました。津波に関しては、記憶はありません。
 今後、大きな地震が起きたら、昔から言われているように、竹やぶに避難することが良いかと思います。私は、戦争体験からか、とっさのときでもすぐに避難できるように、今でも着衣は枕もとに用意して寝ております。また、懐中電灯、ラジオなどもすぐ手の届くところに備えております。とにかく、安全に非難することが先決だと思います。

家の中にも待機場所を

住所:徳島市不動本町1丁目
当時住所:現住所と同じ

 南海地震が起きたのは、私が二十一歳で、国民学校の教師をしていたときだ。木造二階建て瓦ぶきの家に両親と妹の4人で暮らしていた。地震が揺ったとき私は、二階で寝ていたが、下から突き上げるような縦揺れに目覚め、すぐに座卓の下に頭を突っ込んだ。なかなか地震は収まらず、布団を頭からかぶって揺れ収まるのを待った。父は、妹を連れて庭に避難した。母は、庭にある「もちの木」にしがみついていた。隣の家では、家の梁が「メキッ」と折れてしまった。揺れ収まってから祖母が、「はよ隣を見てきな」と言い、私と母は走った。そして、母が隣に住んでいる夫婦ふたりに「心配ないか?」と、声を掛けた。家の梁は折れたものの、けがは無かったようだ。また、近所の酒屋の倉庫の梁も、やはり傷んでしまっていた。けがといえば、近所の籠屋さんでは、地震が起きたとき、小学六年の男の子が二階の窓から飛び降り、足の骨を折ってしまった。あまりの凄いゆれに、とにかく外に出なければ、という危機感からとっさに飛び降りてしまったのだろう。地震が収まって暫く庭にいたが、皆、寝間着のままで外に飛び出していたため、とにかく寒かった。それで、母が父に頼んで、家から服を取ってきてもらい、夜明け頃まで庭に待機していた。その後、家に戻ると、二階の壁と柱が3cmほど離れてしまい、部屋中ほこりだらけになっていた。夜が明けて、その日も通常通り歩いて仕事に向かった。当時、不動橋は、木製だったが、被害は無かった。けれど、通勤途中の飯尾川の土手沿いの田んぼは、普段「よく水がたまるなー」と思っていた所が、液状化で砂が吹いていた。吉野川の河川敷でも名田橋から下の方のあたりに砂が吹き上げていて、液状化現象が見られた。勤務先の学校は木造平屋建てだったが、被害はなかった。
 現在私は、不動分団後援会長として、高い防災意識を持って活動している。近所では家の建て替えが多いが、皆、地盤を深く掘って基礎を丈夫にし、家自体も鉄筋コンクリートにして耐震性を重視しているようだ。また私の考えでは、家が壊れたとしても、隙間に入っていたら助かると思うので、家の中でも待機場所を考えることが必要だと思う。

日頃から災害意識が必要

住所:徳島市南田宮二丁目
当時住所:現住所と同じ

 その日は寒い朝で、寝ていたが、大きな揺れに驚いて目が覚めた。揺れ続ける中、恐ろしくて暫くそのままでいた。木造平屋で瓦ぶきの家に住んでいたのだが、外に出ないと家が崩れるのではないかと思い、まともに歩くことができない中、家族全員が別々ではあったが庭に避難した。父が、「木のふもとに寄っとれ」と言ったので、家族10人寄り添って、庭の木のふもとに集まった。木のふもとなら根っこが地中を張って、地割れを起こしにくいということだからだ。恐怖のせいか、とにかく地震は長く感じたが、地割れは無く、けがをする者も無かった。家の周りは、戦災のため焼け野原となって、残った家が7~8軒ほど点在していたが、倒壊した家は無かった。しかし、地震が収まって少し経ってから家に入ってみると、玄関の壁が全部崩れ落ち、部屋のタンスが倒れていて、すごい有様になっていた。そして、地震後数十分程したとき、遠くから「ゴーッ」という音がかすかに聞こえた。後で思えばそれは、津波の音だったのだろう。そのうち、家の近くを流れる新町川では、材木同士が大きな音を立てぶつかり合いながら流されて凄い状態だった。川が氾濫することは無かったが、この地区の東側にあたる新町川の水位は40~50cm程増していた。地震の影響で、停電はあったものの、当日1日だけで、特に不便は感じなかった。
 地震を体験して思うことは、「御身大事」という言葉通り、まさに地震などの災害のときは、何より体ひとつで逃げるべきだと思う。今は、つい「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で過ごしてしまっているが、日頃から災害に対して、高い意識をもっていなければならないと思う。

防災にやり過ぎは無い

住所:徳島市北田宮四丁目
当時住所:徳島市北田宮町

 私は当時十三才で、現在と同じ場所の木造平屋で草やぶきの家に、両親、兄弟七人、長男の嫁の十人で住んでいた。私は地震が起こった朝、弟と母との三人で寝ていた。地震が起こったことに最初に気づいたのは母だった。母は普段から地震に敏感で、小さい地震でもすぐ気づく人だった。私は母の「稔、地震じゃ。」という声で目が覚め、まだ幼かった弟の手をひいて外へと逃げた。外へ出ると、電線どうしが巻き付いて火花を上げていた。また後ろを振り返ると、自分の家が「ミシミシ」と音を立てて揺れ、空はまだ早朝にもかかわらずほんのりと青く光っていた。私たち三人が外へ逃げた後、次々と家族が外へ逃げて来たが、隣の部屋に居た兄は窓から逃げようとしたが窓がなかなか開かず、一番最後に外に避難してきた。地震自体は最初に「ドォーン」という大きな縦揺れが起こり、後に「ゴォー」と音を立て横揺れが起こった。そして、大きな地震が収まった後も揺れ返しが一日に1時間程度、一週間ぐらい続いた。私たちは、情報機能が不十分だった当時、いつまた余震がくるかわからなく、空襲とはまた違った恐怖心を持ちながら、不安で眠れない夜が続いた。
 この地震によって、電線が絡まったことから停電が起こり、回復に約一週間かかった。しかし幸いにも、当時は電気を使用するものは電灯ぐらいで、また戦時中は電灯を消しての生活が続いたことから慣れていたため、特に生活への支障はでなかった。他に井戸水への影響は、井戸底が見えるほど1回水がひいて、その後水位がどんどん上がってきた。そして、その井戸水は濁ってしまっていて、決して飲めるような状態ではなかったので、近所で使える井戸から水を使わせてもらい、なんとか凌いでいた。命に関わる被害は起きなかったことが、不幸中の幸いであったと思う。また家への被害は、地震後に家が傾いていることが、戸と柱の間に隙間ができていたことからわかったが、それで戸の開け閉めができなくなったということは無かった。あと庄町の方では近くの山が崩れてきたことを聞いた。他に田宮川では、当時それまでは水面から土手まで約1.5mあったが、南海地震の後は地盤が沈下してしまい、その差がなくなるまで縮んだという。最後に津波の被害で聞いた話では、大神子の海岸では1.6mから1.7mの津波が襲ってきて、大神子にいる私の友達の家は家財道具が流された。しかし家の周りに薪を打ち込んで囲っていたため、その薪にひっかかり遠くまで流されずにすんだ。
 私の、この昭和の南海地震を体験した者からの教訓として、父から言われ続けたことだが、「二階に居る場合は慌てて逃げるな。」ということが言える。地震が起こり一階が二階の重みに耐えられなくなり押しつぶされるケースがよくあるが、二階が押しつぶされるということは起こらないので、急いで下に降りることは逆に危険であると思う。
 最後にもう一つ、防災にやり過ぎは無いということである。どれだけ万全に対策をしても、まだ十分でないという心構えが大事であると思う。

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