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噴砂現象

最終更新日:2016年4月1日

地割れで噴き出した砂

現住所:徳島市川内町富久
当時住所:現住所と同じ

 木造瓦ぶき平屋で寝ていたが、母と妻は外に出ていっており、「出てこい」と叫ばれて起き、錠を開けたが揺れが強いので少し収まってから、表口より外へ出た。東の沖の方を見ると何回か真っ赤に光った。余震で身に感じたのは一時間程で、大きな揺り戻しはなく収まった。被害は、母屋が北西へ少し傾き、納屋の屋根が二箇所ざれ崩れた。
 井戸は二十五間(50m)の深さがあり、竹を埋めていたが割れて詰まり、水が濁り、吹かなくなり滲みあがってくるだけでだめになった。そこで、水田用として地域で協議掘りしていた四十本の井戸のうち、半分が潰れていたが、それ以外の、土で詰まっていない井戸を使用した。
 また東の田が低下し、所々で砂が50cm大の大きさで噴いていた。うわ土をめくると、その下の粘土敷きが1.5cm幅くらいで地割れがあり、砂が噴き出し盛り上がっていた。また、川内町富久と富吉の間の堤防が壊れ、二つになって陥没した。津波については、川内町宮島・小松の森さんから聞いたが、吉野川の水が、からからになった後で満ってきたらしい。地域としては、20cmの地盤沈下がおこり、折野町長のときの昭和25・26年に、60ヘクタールの客土工事をした。土は、今切川下流の土砂をサンドポンプで運んだ。また400m先の海よりの米津に20町(ヘクタール)の干拓地が昭和三十八年に完成してからは、塩害はなくなった。
 昔の知恵で、安政の大地震で地盤沈下したときには、一反(10アール)の土地で20%に当たる二畝の田を掘り揚げ、その土で六寸高程の客土をして対応した。そのためか江戸時代後期の一八〇〇年ごろの新田が多い川内町には、掘り割りが多くある。
 参考資料として「川内土地改良区史」平成十三年十一月 創立五十周年記念 湯浅良幸監修がある。
 地震対策では、家の修理として、母屋も納屋もジャッキでつき起こし、壁土を落とし、「しずかい」を付け替え、壁土をつけた。「しずかい」は、普通厚みは、六から七分だが一寸の太い貫きを入れたり、窓の上と下には鉄のボルトを入れて柱を締め付けて、特別に補強をした。注意として、電気や火元には注意をしている。

田んぼは牛が入ると沈んだ

住所:徳島市北沖洲四丁目
当時住所:現住所と同じ

 大きな揺れで目が覚めて着の身着のままで外へ飛び出しました。揺れが凄くて独りで立って居られないので夫とふたりで支え合って収まるのを待ちました。あまりに寒いので揺れが小さくなってから毛布を取りに中に入り、頭に被ってまた外に出ました。大きな揺れのときに10mぐらいの松の木の枝先がしなり、土地を触っているのを見て恐かったのを覚えています。あの頃は海の傍に松や竹を植えてあって、そこには地割れは無かったのですが砂浜には何本も亀裂がはしっていました。家の中にも地割れの影響があって床に段差ができて傾いたりしましたが倒れた家は無かったと思います。
 津波はそのときにはわからなかったのですが、夜が明けて舟や地引網の網が流されたと聞いて津波が来たことを知りました。余震も家全体が揺れるほどで1ヶ月ぐらい続いたと思います。ご近所の方が堤防下の畑の液状化現象が凄くてシューシューと砂が吹き上げていたのを見たらしく「恐ろしかったんでよ」と言っていました。その後は青い砂が畑に盛り上がり田んぼは陥没で牛が入ると沈んでしまうほどだったらしいです。そういえば近所のおじいさんがコタツを持って、腰までビショビショに濡れながら上に住んでいる息子さんに「助けてくれ~」と言いながら上がって来ていました。あれは田んぼに落ち込んだか、吹き上げている砂でビショビショになったかどちらかだったのでしょう。
 何十年後かにもっと大きな地震が来るかも知れないと言われております。そのときは速やかに避難場所に逃げ、荷物はできるだけ軽くしてリュックにいれておいた方が良いと思います。

池に飲みこまれた田んぼ

住所:徳島市川内町北原
現住所:現住所と同じ

 私が昭和南海地震を体験した当時は十八歳だった。当時の住まいは現在と同じ川内町北原にあり、両親と弟の四人で暮らしていた。当時の様子は今でもよく覚えている。自宅で寝ていたところに地震が起こったので、慌てて外に飛び出したことを覚えている。そのゆれは凄まじく、とても歩けるような状態ではなかった。そして、しばらく揺れたあと、すこしおさまったかと思うとまた激しい揺れがやってきた。
 そのとき、空を見ると稲光のようなものが一面に走っていて、あたり一面が明るくなるほどであった。それと同時に「ドロドロ~ドロドロ~」という地震の音とはまた別の地鳴りのような音がしていた。目を地面のほうに向けると、田んぼに地割れが発生していて、そこから青い光が噴出していた。そして、明るくなってから地割れしているところを見てみると、青い砂があたり一面に噴出していた。この地割れによって田んぼが1m以上陥没し、すぐ横にあった300坪以上ある池に飲み込まれた。
 その他に、直接見たわけではなかったが、地震が起こってから20分くらいたってから吉野川に津波がやってきた。「ゴォー」という大きな音をたててやってきたが、堤防が決壊したり水が溢れたりといった被害はなかった。そのため、津波が来たからといって避難することはなく、明るくなってから吉野川の様子を見に行ってみた。すると、水面より1mほど上がったところに津波によって打ち上げられたゴミなどが散乱していた。おそらく津波の高さは1mぐらいだったと思われる。また、地震による人的被害はなかったようであるが、家屋への被害は大きかった。特に納屋や小屋への被害が大きく、全壊しているものも多数あって、ほとんどのものが半壊していた。しかし、比較的しっかりとした造りをしているためなのか人が住んでいる家での全壊はほとんどなく、家が傾いた程度だった。その他に火災、山崩れといったものはなかったが、余震が続いたため夜明けまでは避難を続けていた。
 地震の後、特に困ったということもなく、下着姿のままで外に飛び出したので寒かったのと、電気がこなくなったことぐらいだった。当時、水道はなく井戸水を使っていたため、水の心配はなかった。逆に地震の後に井戸の水位が1mほどあがり、助かったぐらいで水が濁ったりといったこともなかった。当時地元の消防団はあったが、人への被害がなかったので全く無関係だった。
 地震を経験しての教訓としては(1)非常持ち出し品(懐中電灯など)の準備をしておく(2)地震のとき物を家の中に取りに入らない(3)避難経路をきっちり決めておく(4)堤防を強化するなどがあげられる。

吹き上げる泥

住所:徳島市北沖洲四丁目
当時住所:現住所と同じ

 当時もここで住んでいたが、その頃は平屋建ての小屋のような家だった。地震は、立ってはいられないほどの揺れだった。家の外にあった保安林の松の木にしがみついていた。この周辺は、当時、自家製塩をしており、近所にあった煙突が倒れていたのを覚えている。また昔の堤防は低く、天端幅が1.2mくらいで、高さ70cm程度の石積みで作られており、延長が100mくらいしかなかった。その先は浜になっていた。津波のときは、水位が通常より1.5mくらい高くなっていたと思う。100mくらい沖まで水が引いて、押し寄せてきていた。津波の影響で、全体に畑や家が沈下したのではないかと思う。しかし、倒れる家はなかった。
 畑の中からは、泥が吹き上げており、後になって、市役所の人が砂を入れて補修していた。当時、近所にちりめんじゃこを捕っていた船があり、津波で沖に流されたが、運良く押し寄せてきた波に乗って帰ってきたので、大事には至らなかった。この辺りは保安林の松林となっており、当時はポツポツと家が建っていただけだった。今ではたくさんの家が建ち並び、高い場所もないので、避難がたいへんであると思う。この辺りの避難場所は沖洲小学校となっているが、常に避難することを考えて、命を大切にすることを心がけていることが大事だと思う。

青白い砂が大小数ヶ所吹き上げて

住所:徳島市応神町西貞方字小島
当時住所:現住所と同じ

 当時は草やぶき木造平屋で住んでいました。大きな揺れで目が覚めました。揺れ方の最初は上下にド~ンと揺れて、そのうちに横揺れになって3~4分続いたように思います。祖母が慌てて一番に外へ飛び出し、軒一間ぐらいが瓦ぶきでしたので父が「瓦に気い付けよ~」と言いながら家族全員を外に出しました。みんな素足で寒かったので庭に筵を敷いて収まるまで30分ほど外に居ました。我が家は少し歪んだだけでしたが、隣の納屋が倒れて近所の家が2軒倒れましたが、幸いなことにケガ人も無く火事もありませんでした。
 翌日祖母が家が傾いたから墓地はどうかと千鳥が浜という所に見に行きましたら「墓地はいけるけど田んぼから塩ふっきょるわ」と言いましたので見に行きました。田んぼから青白い砂が大小数ヶ所吹き上げて、地割れも少しあったようです。余震は日が照るまでに3~4回あって、それからも少し揺れたような「あれ、まだ揺れよんな」と言っていたのを覚えています。当時は自治体が被害調査をしたと言うことはなく、常会長の呼びかけでみんなが夜明けと同時に集まって在所別に壊れた家の取り除きをしました。
 地震体験者として教訓は、あのときに助かったのは家が倒れなかったことだと思っていますので、昨年新築した家は木造でなく鉄骨にし、どの部屋に居てもすぐに外に出られるように窓を大きくして屋根の重量をできるだけ軽くしています。家族には寝るときにラジオ付き懐中電灯を傍に置いておくようにと言い、もしもの場合は家の庭に逃げるように言っております。

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