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「戦後五〇年を省みて」

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市秋田町 三原 寅雄

 私が淡路島の洲本中学校から故里の渭城中学校に転任してきたのは昭和二十年の四月でした。故郷に帰ったものの学校も校庭に農地代わりの畑などを作り戦時色一色の時でした。自宅の秋田町3丁目に帰って間もなく秋田町2丁目が米軍の空爆により完全に廃墟と化してしまった。それからも度々空襲があり夜も昼もなく不安の毎日がつづいた。
 忘れもしないその年の七月四日再び空襲がありその夜徳島市内は空爆のため殆ど災害をうけ私の家も空爆のため灰になった。私が四歳の長女をつれ妻が二歳の長男を背負い家から南の方へ逃げた。眉山の山の上や所々に焼夷弾が落ち火災が方々に起こり、夜というのに空からの明かりで人々の逃げまどう姿が見えた。私たちは、今の二軒屋駅の手前の小川に難をさけ、水につかりながら逃げまどう人々を見ていたが、今も忘れられぬのは近くの人に焼夷弾のかけらがあたり顔に傷をつけているのを見て生きた心地がしなかった。恐ろしい夜が、明けて自宅に帰ったが家も家財もすっかり灰になっていた。壕を掘っていたが中も焼けてしまっていて、もし防空壕にいたら死んでいたでしょう。家も道具も衣料品もすべて灰になってしまい、その夜は国府町の親類の家へ避難するために私たちと老母と妹は交通機関もないので徒歩で蔵本を経て鮎喰の方へ行った。途中焼け残った家の焼け残った水道の水をびんにうけてのみ、焼け跡にのこった家の畑や庭にのこっている南瓜(かぼちゃ。うれていない青い色のもの)をもらって飢えをしのいだりして、やっと鮎喰川の川原(水がなくきれいな石ころが多くあった)で、その夜は疲れ切って眠った。朝早く朝日が昇るころ私たちは国府の親類へ向かってとぼとぼと歩いた。やっと午後になりその家へつき、そこの人のお世話でやっと国府町の町の一軒屋を借りることが出来た。もちろん着のみ着のままで、たたみなどもないのでむしろを敷いて休みました。
 翌日から私は渭城中学校へ汽車で通ったが、満員で普通車はぶら下がらないと乗れなくて大抵の人々は、牛馬を乗せる貨物車にすしづめになって通勤した。デッキにぶら下がって鮎喰川の鉄橋を、渡ったことも度々でした。国府町から大八車やリヤカーで荷物を運んだりしました。焼け跡の整理や家を建てる努力を、一人で毎日しました。若かったため出来たのでしょう。戦災の苦労のため、栄養失調で多くの人々が、死んでいった。私の母も父も、其の後暫くして、病気になり死んでいるのを見ても戦争のあの空襲が遠因でなかろうかと悲しまれます。
 徳島市以外の地の人々は戦災を受けていないので、この苦しみはわからないかもしれないが、私たちはあの当時を思い出すととてもとても悲しい。妻は田舎で嫁入りに、大切にもって来た晴衣を私たちのためにお米や野菜や食糧にかえてくれ、それで食べつないだのです。
 戦後五〇年をふりかえって見ると今の徳島市は、立派に復興しつつありますが、五〇年前のことを思い出して、今後一層の努力が必要だと思います。苦しかった空襲の夜、それからの苦難の日々を忘れないで私は、一層の努力をしたいと思う。苦しかった戦災の日のこと、そしてささやかながら親切をうけた人々のことを忘れないで、徳島市の将来の発展を心からお祈りします。苦しかった悲しかった時に受けた親切は一生忘れない。この気持ちを徳島市の将来の発展の上に生かしたいと思います。

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