壕に逃れて:古川 祥介

更新日:2016年4月1日

 奈良県天理市 古川 祥介

 当時、私は内町小学校五年生でした。家は内町校(現在のアミコビルの場所)の前にありました。隣は内町校のA先生宅で、前の通りは通称、根津の小路といい、子供達の声が聞こえるだけの静かな所でした。
 七月三日の夜更けです。水が飲みたくて台所に行くと突然、ザー、ゴーという不気味な恐ろしい音がして、西の空一面、急に明るくなり、慌てて裏庭の防空壕に駆け込みました。遅れて両親、祖母、弟三人、生後九カ月の妹、女中さんの八人が飛び込んできました。
 父が外の様子を見てくると出ましたが、すぐ戻り、「早く逃げよう。グズグズしたら逃げ道がなくなる。」と叫びました。そのとき、壕の真ん中で赤ん坊を抱いた祖母が「逃げたらいかん、逃げたらバラバラになって誰かが死ぬ。死ぬなら皆一緒がいい。」と叫びました。普段と違う叫び声に、一度は立ち上がりかけた全員がヘタヘタと水のたまった床に座り込みました。
 この壕は、戦前から洋蘭などを栽培していた大きな温室を壊して作ったものです。立って歩ける深さに掘り、上には土を厚く盛った頑丈なもので、多くの人が避難できる広さがありました。ただ、二カ所の出入口の扉だけができていませんでした。
 六月は雨が多く、地下水もわき、何度もポンプで水をくみ出していました。その日も床板は浮き、膝までつかっていましたが、今思えば、この水のお陰で私達は助かったのです。
 壕からは外の様子がさっぱりわかりませんが、空襲が激しくなっているのを感じます。少しずつ熱い煙が中に入ってくるのです。二つの入口には扉が無く、濡れた筵(むしろ)と布団で、一つは父と小三の弟が、もう一つは私と女中さんとで必死に押さえていました。
 市の中心部にいながら、私達は火の雨・火の海を知りません。ただ、煙が入らないようにと精一杯、必死でした。母は必死に入口をふさいでる私達の後ろからバケツで水を交互にかけ続けてくれました。祖母は九カ月の妹をしっかりと抱き、母や私達を励ますように「召子はまだ生きてる、まだ息してるから・・・。」と叫んでいたのを覚えています。煙が大分流れ込んでいました。必死でした。それはそれは長い時間でした。
 ふと気がつくと外に人の気配がしました。「中に人がいるようだぞ。」という声が聞こえ、父が壕より出てやっと空襲は終わったと知りました。そこには警防団の人達がいました。外に出た私は一瞬、目まいがしました。目の前に黒ずんだ校舎があり、辺り一面くすぶっていました。家も蔵もなくなって、黒く炭になった木が立っていました。裏の大楠木もなく、コンクリートの蔵と練り塀がうっすらと見えました。
 疲れが出て、その場で眠っていました。ほどなくして起こされ、沖浜の親戚を頼って歩きました。その夜は大勢の人達と寝て、翌朝、母の里の脇町に向かいました。列車が不通で佐古駅まで歩きましたが、どれも満員で乗れません。仕方なく夕方遅く、父の同窓生を頼って行き、そこに一晩泊めて頂きました。三才の弟、九カ月の妹を連れて親達は大変だったと思います。
 翌日、やっとの思いで汽車に乗り、穴吹駅に着きました。そこで婦人会の方々から頂いたふかしたジャガ芋がとてもおいしかったのを覚えています。忘れられぬ日々でした。

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