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地震の揺れ

最終更新日:2016年4月1日

千代ヶ丸山へ避難

住所:徳島市論田町本浦中
当時住所:現住所と同じ

 私の家は、昔の中二階建てで、この辺りの家は、全部で60戸くらいしかなかった。ほとんどが田圃で、その間にポツポツ家があった程度だった。地震の揺れは、かなりのものだった。当時、私の父親が「こんな大きな地震は生まれてこのかた初めてじゃ」と言っていたのを覚えている。揺れの方向は、特に横揺れがひどかったように思う。近所の米の土蔵が半壊したのを覚えている。
 近所の佐々木さん宅の隣に小さな消防ポンプと半鐘があり、警防団の人がその半鐘を激しく叩いていたのを聞いて、津波が押し寄せてくることを知った。津波が押し寄せてくるときに沖の方から「ゴーッ」というものすごい音がした。5回くらい、引いては寄せる激しい音がしていたように記憶している。津波は、2回目が大きかった。
 私の父親は、家で飼っていた農耕用の牛を連れ、母親は、小さい子供たちを連れて、大原町の千代ヶ丸山へ避難した。私は当時十八歳くらいだったので、津波で家財道具が流されないように、家の戸締まりをして、あとから家族を追いかけた。突然のことだったので、裸足のまま夢中で避難したが、冬の寒い朝であったため、ひどく足が冷たかったのを覚えている。
 今後の教訓としては、(1)あわてず冷静に判断をすること、(2)できるだけ広くて高いところへ避難すること(しかし、車で逃げるのは返って渋滞を招くおそれがあるので、車はやめた方がよい)、(3)ブロック塀には近づかないように避難すること、(4)履物を履いて避難すること、(5)常に家族と災害について話し合っておくこと、を伝えたいと思う。

電線から火花

住所:徳島市住吉一丁目
当時住所:現住所と同じ

 当時、私は小学校5年生だった。家は昔の家だったが、今と同じ場所に住んでいた。揺れ初めてからすぐ、家族で家を飛び出した。かなりの横揺れがしていた。外に出ると、電柱が揺れ、電線から火花が散っていた。当時父が鏡台を作る仕事をしており、家の中に棚があった。揺れが収まってから家に戻ると、棚からたくさんのものが落ちて散乱していた。電気は停電していた。
 津波については、地震が収まってからしばらくして、どこからともなく、「津波がきよるぞー。沖洲まで押し寄せていっきょるぞー」と言う声を聞いて、家族で、必死で城山へ逃げた。逃げている途中で渡った橋から川を見ると、川の水が変な流れ方をしており、どんどん底が見え始めていた。城山には、たくさんの人が避難してきていた。避難場所は、城山のてっぺんではなく、少し下の平坦な広場にみんな集まっていた。城山では5時間くらい避難していた。地震の揺れはかなり大きかったが、特に被害もなく、津波の心配もなかったが、周りの噂で行動していたため、きちんとした情報が入ってこない怖さがあった。
 現在この辺りの避難場所は、城東小学校になっているが、常に正しい情報を入手し、落ち着いた行動をすることを心がけることが大切であると思う。

地が揺れる怖さ

住所:徳島市佐古四番町
当時住所:現住所と同じ

 地震があった頃は、この辺りは戦争の空襲の傷が癒えず、まだ焼け野原の状態だった。家という家はほとんどなく、この辺りでは私の家があるだけだった。私の家からJR佐古駅や佐古小学校の講堂についていた朝日マークまで見えるほど、周りに何もない状態だった。当時私は、平屋建ての家の中にいたが、縦横がわからないくらいの大きな揺れを感じた。庭の角にあったモチノキがユサユサ揺れていたのを覚えている。その日、父は高知へ出張しており、母が必死で私たち6人兄妹を抱きしめていてくれたのを覚えている。家族は、家の外には逃げずに、いつでも逃げられるように入り口の戸をあけて、じっと様子を伺っていた。その頃、父も同じように、高知駅で帰りの汽車を待っているときに地震を体験したらしく、突然の地震に驚き、隣にいた婦人が怖さのあまりにしがみついてきたという話を聞いた。
 私の家は、海際ではなかったので、津波の影響は受けていないが、当時中学1年生の私は、そのとき初めて「地が揺れる怖さ」を知った。地震が静まった後、母が作ってくれた「おみいさん」の温かさで、救われたような気がしたのを覚えている。
 今は、その頃とは違い、この辺りはたくさんの家が並ぶ界隈になったが、少子高齢化のあおりを受けて、今では、高齢者の一人暮らしやご夫婦だけの家が、町内の半数を占めている。今の状態で、もし、あのときのような大きな地震が来ることを考えると、町内に住む一人暮らしの高齢者の避難方法や救助について、昔とは違った観点での課題が生じていることを感じている。緊急時の近所同士の呼びかけ方や、避難場所への誘導など、昔より以上に、事前に気を配っておかなければならないことがたくさんあるように思われる。

人生の中での大きな出来事

住所:徳島市南沖洲五丁目
当時住所:徳島市大和町

 あの頃の私は親から離れて大和町の親戚に下宿していました。木造二階建ての一階に寝ていたとき、二階で寝ていた従兄弟の「地震じゃぁ~」の声で目が覚めました。そのとき、近所の小6の女の子が泊まりに来ていたのですが、二人でギイギイという音と大きな揺れで「いや~ブランコに乗っとうみたい~」と言いながら、そのまま横になったまま揺れが止まるまで布団を被っていました。揺れるのが収まってから起きたら、二階の部屋に置いてあった花瓶が倒れて出た水と壁土が混ざってドロドロになった物が、布団の上にたくさん落ちていました。それを見て地震の大きさを改めて感じました。揺れで歪んだ窓から外を見ると、真っ黒な雲が空一面に覆い被さり不気味な感じがしたのを今でもはっきり覚えています。
 両親は住吉に住んでいたのですが私のことを心配して、父がやって来て「親戚の家屋は古いから余震で壊れたら危ない」と言って、泊まっていた女の子の家が木工所だったのですが、そこへ連れて行ってくれました。木工所では地割れ対策としてみんなで木を組み合わせて、その上に座って明るくなるまで待ちました。
 幸いにも地割れは無く近所でも壊れた家も無く、壁が落ちたり戸が開き難くなった程度で大きな被害はありませんでした。父のいた住吉のご近所の方達は、井戸水が一度無くなってまた増えたのを見て津波が来ると感じ城山に逃げたそうです。大和町では津波の被害はありませんでした。少し前までの戦争で戦火の中を逃げ回っていた恐さを思うと、それほどの恐怖はありませんでしたが人生の中での大きな二つの出来事の教訓として私は今でも寝ている頭元に、ラジオ、懐中電灯、水、貴重品等を入れた袋を置いて寝ています。
 近い将来またこのような大きな地震が起こるかも知れないと言われています。体験した者として最小限の身の回り品を常日頃傍に置いて、揺れたらとりあえず押し入れの中、机の下などに隠れて揺れが収まるまで待ち、後は情報を早くキャッチして機敏に行動するのが一番であると考えております。

家の揺れが見える程空が明るい

住所:徳島市北矢三町三丁目
当時住所:徳島市南佐古八番町

 南佐古に住んでいるときに地震に遭いました。すごい揺れで立っていられなくて這いながら外へ逃げました。私は戦争時、徳島県教育委員会管轄の日本航空協会で航空兵の訓練をしており、そこで空襲にも遭いましたから普通の十六歳の人より度胸が据わっていたと思います。その私が立っておられない程恐かったのですから、そうとうの揺れだったと思います。また戦時中から道路に置いてあった防火用水の水が半分ほど減っていましたので、揺れのすごさはそれだけでもわかると思います。しかし、幸いなことに我が家の被害は階段下の壁に亀裂が入って土が落ちたぐらいでした。当時、家の中で養蚕をしておりましたが、それにも影響がありませんでした。
 あのときのことでよく覚えているのは、朝まだ明けてもないのに、家の揺れがはっきり見える程空が明るかったことでしょうか。津波は後に父から聞いたぐらいですので、水の被害もありませんでした。
 地震の体験者として言っておきたいのは、揺っている最中は様子を見ながら家の中でいた方が良いと思うし、その方が安全だと思います。

二と一の繰り返しの不思議な日

住所:徳島市助任本町6丁目
当時住所:現住所と同じ

 昭和21年12月21日 忘れようとしても忘れることのできない2と1の繰り返しの不思議な冬の日です。旧制女学校3年の耐寒マラソンの行われる日でした。得意ではないが頑張ろうと早くにやすみました。ぐらっと来て、母はタンスの前で引き出しを押さえましたが、あまりにもひどい揺れで、母に言われて、私は祖母のこたつを、もう一つを母が抱えて家の外に飛び出し、一番離れたところで家族4人が伏せておりました。揺れがひどく、転びそうな足取りであったと思います。どれくらい長いのかわかりませんでしたが、ひどく長い時間であったように思われました。揺れが収まって近所の方たちと無事を喜び合いました。戦後2年目2月に平屋バラックを建てたので、土壁は塗ってなく板壁でしたので、壊れることもなく家は無事でした。当時は焼け跡の防空壕にトタンで屋根にした家とか、焼け残りの蔵で住む人とかがバラバラと住んでいる程度でしたので、被害の話は聞かれなかったように思います。父が電話局に勤めていた関係で、電話は早くからあり、市内中心部は大丈夫との連絡が入っており安心いたしました。ラジオで南方の津波被害の大きさを聞き、後で怖さが迫ってきました。
 何日程過ぎてからかは思い出せませんが、飲用に使っていた掘り抜き井戸の水が全く湧かなくなりました。水道水も併用していたので困ることはありませんでしたが、不思議なことに、もう駄目かなと思っていると、前程にはコンコンと湧きませんでしたが少しずつ出るようになって来ました。しかし、飲めていた水に塩がさし、飲用にできなくなり、洗濯の下洗いしか使えなくなりました。地下水脈が地震で変わったのでしょう。
 現在方々で地震の速報がよく聞かれますが、あの頃もよく地震があり、ガタガタと揺れており、当時とふと重ねることがあります。母に教えられた火の用心の大切さ、また飲み水の確保等を常に心しなければならないと心に言い聞かせています。

馬小屋が波のように揺れて

住所:徳島市蔵本町3丁目
当時住所:現住所と同じ

 当時、今の医大の校舎は馬小屋でした。我が家は国道を挟んでその前にありましたから地震で外へ飛び出したとき、10mはあったでしょう馬小屋が波のように揺れていたのを目の当たりにしました。また、戦時中の名残で所々に防火用水があり、中の水がバシャバシャと音をたてて溢れていました。この二つのことが今でもはっきりと記憶に残っています。とにかく凄い揺れだったので、恐さのあまり「世直し世直し」と無意識に唱えておりました。
 ゴォ~という音がして父が「沖がなんよる(鳴っている)」と言っていましたが津波は来ませんでした。家がポツポツしかありませんでしたので台風のときでも音はよく聞こえて来ましたが、このときは本当に物騒な音だったと思います。
 地震を体験した者から何かを残すことと言えば、暗いと恐さが増すし危ないので、懐中電灯はいつも手近に置いておくこと、逃げるときは必ずお位牌を持って行くこと、また最低限度の物は自分で用意して自分の身は自分で守るということでしょうか。

天も地も怒っているような感じ

住所:徳島市住吉四丁目
当時住所:徳島市通町3丁目

 グラっと来て「地震じゃぁ~」と思ったとき、バタ~ンとそのまま腰が抜けたような感じで、揺れが収まるまで家族七人が家の中に居ました。当時の家はバラックで、建て添えを大工さんにしてもらっていたのですが倒れませんでした。近所もパラパラしか家が無かったのですが、倒れたり、ケガ人、火事も無かったです。後に浅川で津波の被害があったと聞いて、姉が青年団の副団長でしたので招集を受けて行ったことを記憶しています。
 ここでは津波の被害はありませんでした。戦争が終わってすぐに大きな地震が来て「天も地も怒っているような感じ」だと思いました。
 教訓として、地震では被害が無かったのでわかりませんが、戦争の体験から他人を「あて」にしない、自分の身は自分で守ることです。戦争中、母が持たせてくれた救急袋でどれだけ助かったかわかりません。だから今でも何が起こるかわからないので、外出のときは必ず、水と少しのお菓子を持っています。

電線が切れて火花が飛んで

住所:徳島市丈六町山根
当時住所:徳島市南仲之町

 ガタガタと大きな音と揺れで目が覚めたので子供を抱えて這いながら外へ出ました。外に出て一番に目が入ったのは電線が切れて火花が飛んでいる様子でした。暗い中でのパチパチという不気味な音と火花は本当に恐かったです。道路では水道管が破裂したのでしょうか、水が吹き出ていました。我が家ではケガをした人も無いし家も大丈夫でしたが、父が近所を見回ったところ、2~3人の方が落ちてきた瓦でケガをしたようなことを言っておりました。空襲も恐かったけれど、この地震も揺れが長くて大きかったので恐かったです。しかし、戦争中生き延びてきたのに死んでたまるかという気持ちと、子供を守らなければという思いでいっぱいでした。

「いつもと違う」と感じた揺れ

住所:徳島市新蔵町1丁目
当時住所:徳島市徳島本町

 私が昭和南海地震を体験した当時は二十四歳だった。当時の住まいは徳島本町にあり、木造平屋建ての杉皮ぶきのバラックに家族六人で住んでいた。当時の地震の様子は今でもよく覚えている。そのときは夜明け前とあって自宅で寝ているところだった。地震が来たとき、「いつもどうりだな」と大したことはないとタカをくくってしばらく寝ていたが、あまりにも揺れが大きかったので「いつもと違う」と思って外に出てみた。すると、あまりに揺れがひどいため、立っていることすらできず、焼け跡の石にしがみつくのがやっとだった。地震の揺れ自体は2分以上でかなり長く感じられた。この揺れでけが人、建物への被害、火災、山崩れといった被害はみられなかった。
 夜が明けると、津波が来るというのとそれと同時に福島橋が壊れるというので多くの人々が城山へ避難していた。しかし、私は自分の家までは津波は来ないだろうと思ったので避難はしなかった。すると、案の定昼頃には避難していた人々がぞろぞろと帰宅していった。
 この地震で特に困ったということは無く、水道の水も止まることなく普通に使えた。私の妻は、そのとき神山で地震を体験したが、そこでも大きな揺れを感じた。だが、ここでも大きな被害やけが人は無かったようである。
 地震を経験しての教訓としては特に無いが、当時の家は平屋で杉皮ぶきだったので被害は小さかったが、今の家は瓦ぶきでしかも密集しているため、次の南海地震は大きな被害がでると思われる。そのため、地震が来たら来たときでしかたないが、家族では近くの公園へ避難することを決めている。

「稲むらの火」を思い出して

住所:徳島市福島一丁目
当時住所:現住所と同じ

 内町小学校で教員をしておりましたときのことです。地震時は寝ておりました。最初ゆらゆら揺れて、そのうちだんだん強くなって来たので外へ飛び出しました。
 教科書に「稲むらの火」という地震の話があります。それは庄屋さんが地震の後から津波が来ていることを村民に知らせるために刈ったばかりの稲に火を付けたという話ですが、それを思い出し急いで福島川まで見に行きました。1時間ぐらい経ったでしょうか、真っ黒なヘドロを含んだ水が押し寄せて来たのを覚えています。幸いにも川より溢れ出ることは無かったので大したことはなかったです。
 困ったことは急なことで避難準備ができてなかったことです。でも、ほとんど被害がなく揺れが収まってからはいつもの生活をしたと思います。徳島市史の本にも一行、南海地震津波2mだけしか書かれておりませんので、徳島市全体はあまり被害が無かったのではないかと思います。

我が町を傷めつけた地震

住所:徳島市応神町中原字宮ノ東
当時住所:現住所と同じ

 私が昭和南海地震を体験した当時は十四歳だった。当時の住まいは現在と同じ応神町にあり、木造の二階建ての家で暮らしていた。当時の様子は今でもよく覚えている。自宅で寝ていたところに地震が起こり、あわてて外に飛び出そうとしたが、雨戸が開かなくてなかなか逃げることができなかった。そのときの揺れは大きく、地震が来たすぐはもちろんだが、その後しばらくしてからひどい横揺れがやってきた。そして、地面が左右に1mぐらいスライドしているような感覚で、その揺れは5分ぐらい続いた。その後の余震は30分に一度ぐらいあったがそんなに大きくはなかった。この揺れで、私の家も含め近所のほとんどの家で、床の間の座板が抜けたり、壁が崩れたり、二階への階段が崩れたりしていた。近所に古い借家(長屋)があったが、それが潰れたりしていた。しかし、けが人等が出たという話は無く、火災もなかった。津波が来たかどうかはわからない。
 この地震で困ったことというのは、当時の井戸というのが竹を地面に打ち込んだ井戸だったが、それが傷んで水の出が悪くなったり濁ったりしたことだった。その他に停電もしたが、その日の昼には回復した。当時、消防団があって台風のときは活動していたが地震のときは活動していなかった。
 最後に地震を経験しての教訓としては、(1)家が歪んでも逃げられるように戸をすぐに開けるようにする(2)火の始末をきちんとする(3)耐震住宅を建てる等といったことである。

余震はゴォ~という地鳴りと共に

住所:徳島市多家良町小路地
当時住所:現住所と同じ

 大きな揺れで目を覚ましましたが、当時は草やぶきの平屋だったからでしょうか、舟に乗っているような感じで「あ~よう揺ってるなぁ~」と思いながらそのまま寝ておりました。そのうち外へ出ようとしたら収まりました。両親は朝早くからお餅を搗いていたらしく、揺れたすぐにかまどの火を消したそうです。我が家では蔵の壁土が落ちたぐらいで、井戸水にも何の影響も無く生活に支障は無かったです。近所でも瓦の落ちた家はありましたが地割れとか田んぼにも被害はありませんでした。しかし、町に当時の肥料として使っていた人糞を買いに行くのに、途中道が陥没している所があって困ったと父が言っておりました。
 余震はゴォ~という音と共に1日に多いときには5~6回揺れて1ヶ月ぐらい続いたと思います。津波は後日にラジオで県南の方に被害があったと知りました。ここは山の合間ですので地震、津波の心配はしておりませんが、念のため家の建て替えのときに「すじかい」をたくさん入れています。

発光しながら揺れる山脈

現住所:徳島市国府町早渕
当時住所:現住所と同じ

 当時は木造本瓦ぶき二階建てに住んでいました。弟と私は大きな揺れで目が覚めて飛び起き、一番先に戸を開けて裸足で外へ逃げました。庭先で座っていましたら、二階で寝ていた家族も後から出て来ました。あの日は寒くて霜がおりていました。揺れも大きかったですが、音も大きかったように思います。余震は数回来て、最初の揺れ程ではありませんが、大きなものも何回かありました。電柱の高圧線が縄跳びのように揺れていて、また南に見える四国山脈の山も揺れ、まだ暗いのに稲光のように光っていました。
 約百五十年前の地震では、この辺で十軒ぐらいの家が崩れたらしいですが、この地震では倒れた家も無く、たいした被害も無かったです。我が家では、壁の隅が少し落ちて納屋が傾きましたが後に起こしました。
 津波については翌日新聞、ラジオで県南に被害があったと知りました。ここでは井戸水にも影響は無かったです。停電については記憶がありません。
 助かったことといえば、家が柱の少ない割には、大黒柱に24cmの太いケヤキを使っていたこと、幅広い「さしまわし」がしっかりしていたことだと思います。あれから瓦のふき替えをしましたが、後の阪神大震災のときに屋根を軽い袖瓦にしておけば良かったと思いました。また今では、前の軒が長いので支え柱があと一つあっても良かったのではないかとも思っています。しかし、納屋は柱を強くしていますし、土台も強くしています。

恐怖にしがみついた槙の木

住所:徳島市津田本町五丁目
当時住所:徳島市津田町四丁目

 私が昭和南海地震を体験した当時は十一歳だった。当時の住まいは現在の津田町4丁目にあり、木造の平屋建ての家で家族八人で暮らしていた。自宅で寝ていたところに地震がやってきて、「早く外に出ろ!」と父親にたたき起こされた。慌てて外に出ようとしたが、戸が開かなかった。すると父親が戸を蹴破ってくれたのでなんとか外に出ることができた。外に出てみると揺れがとてもひどかったので、庭の槙の木にしがみついていたが、揺れは長く続いた。そのときに近所のおじいちゃんが「地割れの間に落ちたらいけないから畳を外に放り出せ!」と言っていたが、そうしたかどうかは覚えていない。
 その後、近所の人が「津波が来るぞ!」と言っていたので、津田の小学校のほうへ避難した。しかし、小さな津波しか来なかったので、途中で引き返してきた。その後も余震が続いたので外で避難していたが、とても寒かったので近所の人が集まってたき火をしていた。その余震は数日間続いたと思う。
 この地震で大きな被害というのはなく、ただ井戸水の水位が下がったというのは聞いた。この地震で困ったことはあったのかもしれないが、まだ幼かったのでよく覚えていない。助かったこととしては外に出て木にしがみついていたことである。当時動いた組織が活動していたかというのはよく覚えていない。
 地震を経験しての教訓としては、(1)避難場所が遠いのは危険である(2)非常持ち出し品を用意しておく(3)火の始末(4)戸を開けるといったことである。

余震で肥料の人糞がこぼれそうに

住所:徳島市勝占町松成
当時住所:徳島市八万町夷山

 当時は大所帯で13人が草やぶきの家に住んでいました。「はよ~みな起きな~(早く皆起きなさい)」の声で目が覚めて急いで外へ飛び出しました。外へ出たものの揺れが凄くて立って居られなく恐ろしさの余り大きな悲鳴を上げてしまいました。揺れが凄かった割には被害が殆ど無かったと思います。余震は小さいのと時々大きいのが一日中ありました。何故このように記憶があるかと言えば、昔の肥料は人糞でしたので各家に貰いに行っていたのですが、あの日も肥料を積んだリヤカーを父がひいて私が後押しをしていましたら、余震が度々あってこぼれそうになり大変な思いをしたからです。とにかく揺れは大きかったです。
 今後の対策として身の回りの物をリュックに詰めておいて地震が来たらそれを持って逃げることでしょうか。

柱石のずれ、危機一髪!

住所:徳島市応神町吉成字轟
当時住所:現住所と同じ

 私が昭和南海地震を体験した当時は二十五歳だった。当時の住まいは現在と同じ応神町にあり、木造の二階建ての家で暮らしていた。この家は昭和十五年に建てたもので、現在もその家で暮らしている。地震が起こったときは妊娠中の妻と一緒に二階で寝ており、両親と祖母は一階で寝ていた。地震の揺れが大きかったのではしごが落ちてしまい、両親が「下に降りて来い」と呼んでいたが降りることができなかった。しかし、祖母が一階で寝ていたので助けなければならないと思って、二階に妻を残してなんとか滑り降りて祖母を助けに行った。すると祖母はタンスの横に座ったまま外に出ようとしなかった。そのとき両親はすでに家の外に逃げていた。妻は二階で泣いていたが、家が潰れても二階が潰れることはないと思ったので自分も外に逃げようとした。すると当時の家というのは柱石という石の上に柱を乗せて建っているのだが、揺れで柱が浮いたり沈んだりしたため、柱石が横にずれてしまっていた。このままでは家が倒れると思ったので慌ててその柱石を柱の下に打ち込んだ。あのときこのことに気付かなかったら家は倒れてしまっていたと思う。
 地震の後、戸の開け閉めができないほど家が歪んでしまったので、大工さんに頼んで直してもらった。この地震でけが人はなく、建物は納屋が2~3戸潰れただけだった。当時父が船を持っていて吉野川につないであったが、津波が来るというので吉野川を見に行った。すると高さが3~4mぐらいの津波がやってきて、つないであった船がひっくり返ったり堤防へ打ち上げられたりしていた。その津波は大きくて堤防の上の方まできていたが、水が溢れ出るといったことはなかった。そして津波はその後も押したり引いたりして何回もやってきた。この津波が来るまでの時間は早く、地震が起こってから30分ぐらいでやってきた。また、この場所から西のほうへ行った小島の道路では地割れがして、そこから青い砂と水が噴き出していたということを聞いた。
 困ったことというのは二階から降りられなかったことで、助かったことというのは外に出たときに柱と柱石がずれているのに気付いたことである。当時私はこの地区の消防団員だったので近所の倒れた二軒の家を片付けに行った。
 最後に地震を経験しての教訓としては、耐震設計の家を建てることである。

足がもつれて上手く歩けない

住所:徳島市論田町新開
当時住所:徳島市明神町4丁目

 木造草やぶき平屋に六人で生活をしていました。私を含めて兄弟四人が表の間で寝ていました。凄い揺れで目が覚めて雨戸を開けて外へ出ようとしたのですが、揺れが大きくて足がもつれてなかなか外へ出られませんでした。どうにか外へ出て、当時農家で庭が広かったものですから前の門庭に逃げました。そのとき納屋が揺れているのが目に入り「うわぁ~すごいなぁ~」と思って庭の真ん中に行こうとしたのですが、また足がもつれて上手く歩けなかったことが記憶に残っています。横揺れが2~3分続いたように思います。幸いにもケガをした人はいなかったです。家の被害状況は、我が家では母屋の屋根の一番前にあるともえの瓦が落ちていたぐらいでした。近所でも瓦の落ちた家はあったみたいです。父が「井戸を見てみろ」と言ったので、停電になっていましたから提灯に火をともして見ましたが、水位の変化はありませんでした。
 津波はその日に「津波が来よるぞ~」と言う声が聞こえたので御座舟川の奥まで見に行きましたら、水が全部引いて繋いであった釣り舟が流されて行くのが見えました。そのうち下から1mぐらいの波が押し寄せて来るのが見えましたが恐くなって帰って来ました。道にまで水は来なかったので被害はありませんでした。余震はかなり続きました。3~4日経って映画を観に行ったのですが、上映中に揺れたので外へ飛び出した人もいたようです。被害が無かったからかも知れませんが消防署も警察も活動していたという記憶はありません。
 地震時に南昭和町の農家の方が馬に乗って「津波が来たら教えてやるけんな~」と叫んでいたのを耳にしたときは心強かったです。地震のときは安全な場所に逃げるのが一番だと思います。

階段が落ち、二階に幽閉

住所:徳島市応神町吉成字有天
当時住所:現住所と同じ

 私が昭和南海地震を体験した当時は二十九歳だった。当時の住まいは現在と同じ応神町にあり、木造の二階建ての家で暮らしていた。当時の様子は今でもよく覚えている。自宅の二階で寝ていたところに地震が起こり、あわてて外に飛び出そうとしたが、すごい揺れで二階へ上がる階段が落ちてしまっていて降りることができなかった。そのため、一階に降りるのはあきらめて、揺れがおさまってから兄にはしごをかけてもらって、一階に降りた。そのときの揺れはそう長くは続かなかったが、時間を置いて2~3回揺れた。けが人がでたという話は聞かなかったが、近所で馬小屋や納屋がたくさん倒れたので、みんなで馬を助け出した。その他に民家が倒れたということはなく、少し傾いた程度だったので後で修理した。すると当時の家は柱を組み合わせてクサビでとめていたのだが、それが緩んでいた。地震による火災や山崩れはなく、市内で津波が来たという話もなかった。
 困ったことというのは階段が壊れて一階に降りられなかったことぐらいで、停電もしたが2日ぐらいで復旧したので特に困ったということはなかった。当時消防団などといった組織はなく、活動もしていなかった。
 最後に地震を経験しての教訓としては、(1)テレビや新聞で流れている地震や防災の情報を普段から気を付けてみておく(2)何より水が大切なので蓄えておき、その他のラジオや懐中電灯なども準備しておく(3)地震が起こっても押すだけで開くことができる昔の地震戸のようなものを作るなどといったことである。

世直れ、世直れ

住所:徳島市大原町余慶
当時住所:徳島市中昭和町2丁目

 十五歳だった私は、建って5~6年の木造二階建ての家に、両親とふたりの兄の五人で住んでおりました。その日、私は両親と一緒に一階の部屋に寝ておりましたが、ものすごい揺れで目が覚め、恐怖に震えながら起き上がりました。そして、母と一緒に部屋のタンスの傍に抱き合うようにして寄り「世直れ、世直れ」と呪文のように唱えていたことを覚えております。「世直れ」とは、名西地方の言葉で「元通りになれ」というような意味合いの言葉です。とにかくひどい揺れと、何より長い時間の揺れに、「このときが早く終わってしまって頂戴」という思いで一杯でした。一方、父は、二階にいる兄達ふたりに、階段下から「はよー下りてこい」と、大きな声で呼びかけておりました。でも、兄達は、「揺れが、ごっついんで、下りられん」と応え返してきました。そして、一間ある二階の窓が、傾いてひずんでしまったというのです。その内、兄達は、恐ろしさ半分、好奇心半分なのか、二階の窓から見える外の情景を実況中継のように、逐一、下にいる私たちに伝えるように言ってきました。「おっ、木がゆっさ、ゆっさ揺れとるぞ」「あっ、あの先の○○さんが、外に出ておるぞ」等‥。随分、余裕なものだと、少々あきれてしまったことを覚えております。
 長かった地震が収まり、外で井戸の水に目をやると、水が「サッー」と引いたので、両親が「津波の前触れかもしれない。津波がきたら大変だ」と申しました。ちょうど、出産間近の姉がおりましたので、父が急いで大八車を調達してきて、姉の荷物を積み込んだ記憶があります。結局、ここらには津波の被害は無く、避難することはありませんでした。また、家屋は窓が傾いた程度で、地割れも無く、大きな被害には至りませんでした。
 近い将来、またあのような地震が来るということですが、何より身の安全を確保して、すぐに外に飛び出すのではなく、冷静な判断で、状況に応じた対応の仕方が重要だと思っております。けれども、頭では解っていてもいざ地震となると、どうしても恐怖感の方が先に立ってしまい、冷静に判断できるか否か、私にもわかりません。

地球がぐるぐる廻って

住所:徳島市大道2丁目
当時住所:現住所と同じ

 昭和二十一年十二月二十一日早朝、突然、地球がぐるぐる廻って、立つことはできなかった。東の空は、稲光がして、地球が廻っているようで大変恐ろしかった。ただ、じっと座って、三歳の次男を抱いていた。どうすることもできなかった。家は、二十年七月三日夜から四日にかけての大空襲で、市内全部は焼野原となり、命からがら逃げ延びて、田舎へ疎開し、二十一年三月に木造平屋建てを建て、元の地に帰ったばかりの出来事だった。何事もなく無事だったのが、何よりの幸いだった。ただ、家の中は何もなく、「うすべり」を引いただけだった。すべって歩けなかったのを覚えている。

隣家がペシャンと倒壊

住所:徳島市国府町日開
当時住所:徳島市不動西町

 太平洋戦争で国破れ、二百万とも三百万とも言われる犠牲者を出し、国民すべてが激しかった来し方の戦いを思い士気喪失、また米国の爆撃により日本全土主要都市は破壊、焼け野原の廃墟と化し、市民は心身共に打拉がれた状況にあった。昭和二十一年十二月中旬郷里に帰る。そして家業の農作業に、進駐軍の日雇雑役と、その日暮らしの中、同年十二月二十一日夜明けも間近いときかと就寝中、夢心地の中で遙か東方から「ゴオーッ」と言う海鳴りか、はたまた地鳴りか、地に籠もる音が耳を打つ一瞬、何事と不審を抱く間もなく、グラリとの激震。家がガタガタと縦に横に大揺れする。「地震じゃ、大きいぞ。皆早よ外へ」と家族互いに大声で呼び合い、表出入口から外庭に飛び出す。外庭に飛び出しても、なお大地の揺れは止まらず、家が倒壊した際に下敷きとならぬよう家屋から離れようとするが真っ直ぐ歩けない。歩こうとすれば足が縺れる。正にこけつ転みつの状態で、表出入口から僅か二十米ばかりの庭先の松の木にやっと辿り着き、家族一同これに縋りつく、とそのとき、南隣の築三百年とも言われていた旧家、木造茅ぶきの大居宅が、ドーンと言った音響と共に土台から崩れペシャンと倒壊、同時に三百年の積もり積もった埃が、まるで黒煙りの如く夜空にモウモウと舞い上がる。同家の当主は戦死、婦人と子供、大声で安否を問うと、「皆無事です。」と震えながらの返事がかえってきた。
 時に漸く大地の揺れが止まり、家族の無事を確認し合って、「大きな地震じゃな」と今更ながら驚く。幸いに我が家は倒壊を免れたが、大地の揺れが治まったとは言え、母がこれだけの地震、必ず揺り返し(余震)があるからと夜明けまで外庭にてすごす。やがて東の空から白々と夜が明けてくる。幸いに我が家は傾きもせず、現状を維持していた。屋内の諸道具も、棚の上の物が転落していたが、箪笥、戸棚等は倒れもしていなかった。しかし、居宅が倒壊した南隣の家は、茅ぶきの大屋根が下部を押し潰しており、よくぞ家人が下敷きにならなかったものと、不幸中の幸いと慰めたものであった。また同家の東側の木造茅ぶきの納屋、道路側に傾斜し、倒壊寸前まで傾斜していた。
 さて、当時は現代の如くテレビもなく、ラジオも農村地帯に殆どなく、更には新聞を購読している家も稀であった。従って地震の被害状況も広範囲に亘って知る方法はなく、只近所について知るばかりであった。日が経つに従って、人から人への口伝えで被害の状況が入ってきたが、南の浅川と言うところが津波に襲われて人が多数海に浚われたなどの情報もあったが、それはそれで聞き流しで深く心に止めることもなく、それよりも自分の今日の生活に追われる日々であったのである。

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